映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

■ 映画館だより『どこに行くの?』<br>直球勝負の大いなる賭け

 「それぞれの愛の形、それが異性であれ同性であれ物であれ、愛してしまえばそこからラブストーリーが始まると思うんですよ」は松井良彦監督の言葉。『追悼のざわめき』から22年……松井監督の第四作目となる新作『どこに行くの?』。そこに描かれていたのは、鮮烈な“ラブストーリー”であった。「それぞれの愛の形」は“同性愛”として描かれている。しかし、「愛してしまう」というフックが強烈であればある程、「愛の形」は問題でなくなる。この映画では、登場人物たち彼らの愛するに至った理由は、明確に描かれてはいない。そもそも、愛する者たちに“理由”なんて必要なのだろうか。この映画には愛する理由ではなく、愛する者たちそれぞれの“愛する姿”そのものが描かれている。

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 怒りや苛立ちの黒い塊であるアキラ(柏原収史)が、赤いワンピースを着た女・香里(あんず)をバイクではねてしまう。それは鮮烈な愛の衝突であり、そこには愛の火花が飛び散ったに違いない。香里がニューハーフであることが、さらにその摩擦熱に拍車をかける。

 アキラも香里も一塊のエネルギーだ。

 今の日本映画と『どこに行くの?』の相違点があるとすれば、エネルギーの温度差だと思う。松井良彦監督は80年代に日本で起きたインディペンデント映画の象徴的な存在だ。当時のインディペンデントの映画制作の環境で映画創りをすることが、どれだけ精神的肉体的金銭的に大変だったかは想像に難くない。

 そこには人生そのものと引換えにされた、エネルギーの発露があった。ただ楽しい、ただおもしろいとは無縁な、人生に裏打ちされた創造力があった。この映画にはっとさせられるのは、22年前同様にそのエネルギーの熱を感じ取ることができるからである。

 そしてデジタルという現在の象徴に刻印された『どこに行くの?』のエネルギーに、怪物的な印象さえ受ける。デジタルの鮮明な画の中に、突然磁場が乱れたような荒い粒子を見出すことができる。そのノイズの中に、松井監督の過去の3作品『錆びた缶空』(79)『豚鶏心中』(81)『追悼のざわめき』(86)が亡霊のように立ち現れるのを見たのは、僕だけではないだろう。現在進行形であり続ける映画作家の表現に、積極的に過去を見出す見方は、あまり好ましいものではないのかもしれない。しかし松井監督の作品について考えてみると、一つ一つの作品が一話完結という形にはならない。それぞれの作品が一つのテーマで結びつき関連し合って、大きな歴史の流れを築いていることに気が付く。22年間の沈黙もこの歴史の中では重要な一部だと思うし、溜めであり新たなる展開へのプロローグであるなら納得がいく。だから松井監督の映画は今だけでなく、今に包含された過去、歴史の重みが必然的に浮かんでくるのだと思う。

 その映画の歴史の重みは松井監督自身の心の歴史の象徴であると、僕には思えてならない。

 それにしても相変らず、松井監督の映画の登場人物たちは爆発的なエネルギーを放出し続けている。それぞれの人間と世界との歪んだ境界を、さらにずらし摩擦するようにして。松井監督の映画でそれを体現し象徴しているのが、佐野和宏という役者の存在だ。佐野和宏は松井監督の盟友であり、映画監督でもある。その不機嫌な顔相で、世界に反旗を翻す。彼が演じた刑事の福田は、アキラに対する“愛”しか眼中にない。男が男を愛してしまうことよりも、福田が“愛”故にアキラを追いかける執着心の方に狂気を感じる。その狂気こそが、福田の真なる「愛の形」に他ならないからだ。狂気の中でひたすら、愛する者への強い“愛”が浮かんでくる。

 アキラが働く工場の社長で幼い頃から父親代わりでもあった木下(朱源実)も、性的虐待という歪んだ「愛の形」で、アキラを愛してきた。彼は倒錯した形でしか、“愛”を表現する術を知らない。それぞれの人間が、それぞれの「愛の形」を盲目的に全うする。

 そんな二人の男たちに愛されるアキラは漆黒の闇の中、香里の顔を懐中電灯で一心に照らす。闇の中で彼女の顔が鮮明に浮かび上がる。これはアキラの無意識の行為だろう。だが、この香里の顔を光で照らす行為から、いろいろことが想像できる。アキラが放つ光は彼の心を具現化した「愛の形」であるだろうし、漆黒の闇は正に彼らの置かれた状況そのものである。ごくシンプルに丁寧に、多くを語らない描写でその思いを感じさせる。アキラと香里のセックスが淡白に描かれたのも、“愛”を直接的にではなく間接的に感じ取って欲しかったからであると思う。アキラと香里の間には光を届かせるために必要な距離があり、その距離の中でドラマを創り上げ感情を羽ばたかせている。そしてその決定的に埋め難い距離こそ、現実を生きる人間それぞれの距離であると思う。松井監督の創り出す映画はこの距離を埋め“愛”に至るために、ひたすら苦しみ悩み悶絶していると思うのだ。

 『どこに行くの?』には“恋愛”というモチーフがあり、直接的に“愛”を描かざるを得ない。以前の3作品は直接的には“愛”とは背反するような描写をしながら、間接的にはその描写と表裏一体となった強い“愛”が浮き彫りにされた。この映画では直接的な“恋愛”を描くに当たって、“愛”を描き出すための描写に間接的な距離を感じる。“愛”そのものを描く時、どのようにして“愛”を浮き彫りにするか? 松井監督はこの映画で「“愛”をもって、“愛”を描く」直球勝負の大いなる賭けをしたのだと僕は思う。描写との間接的な距離の隙間に、“愛”を描く松井監督の葛藤や試行錯誤が刻まれていると感じた。

 僕は香里という人物から、坂口安吾の『死と影』の登場人物であるヤマサンという歌舞伎の女形の青年を思った。ヤマサンは安吾に懇願する。「先生にお仕えしたい」と。安吾はその「己を虚うした心事」、“献身”の心に胸を打たれた。香里はその“献身”の心を見事に体現した人物だと思う。アキラの犯した罪を、香里は自らも進んで背負う。その時の彼女の表情の変化、凛々しさは特筆に値する。“献身”する人間の美しさが彼女に宿る。その“献身”こそ彼女の「愛の形」であるならば、彼女こそ“愛”の具現者であり、彼女の存在は性別という概念を遥かに超えている。アキラに与えられるべき罰を、香里は“献身”という名の“愛”によって肩代わりする。その完全なる“自己献身”によって、香里は“愛”を成就させたのだと僕は強く思った。『どこに行くの?』の結末に観る人は賛否両論を起こすだろう。だがそれは、徹底して“愛”の核心に差し迫った“愛”の映画だからこそである。

 50歳になって“初恋”を描く松井良彦監督は、徹底して“愛”を描いてきた“愛”の映画作家だと思う。以前の3作品『錆びた缶空』『豚鶏心中』『追悼のざわめき』は、第1期の松井監督の青春三部作と捉えることができる。

 若さという軸があり、何かを見つけ出そうと意気盛んな疾風怒濤の作品群。第2期の松井監督は、第1期に発見した“愛”を軸にして、また新たなる何かを追い求めて行くだろうと僕は推察する。『どこに行くの?』という名の通り、そのプロローグであると。松井監督にしかできない形で、映画に対しての“愛の献身”を魅せつけてくれるだろう。始まってしまったラブストーリーは、誰も止めることなどできない。

text by 松島誠(アルバイト)

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『どこに行くの?』

監督・脚本:松井良彦

出演:柏原収史、あんず、佐野和宏、朱源美、村松恭子、三浦誠己、長澤奈央

配給:バイオタイド

2008年4月12日より名古屋シネマテーク、5月17日より横浜・シネマジャック&ベティにて公開。京都みなみ会館でも公開予定(上映日時未定)

公式サイト:http://dokoniikuno.com