映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

■試写室だより『スエリーの青空』<br>灼熱の大地に刻まれたブラジル映画の現在

 ブラジルの国土の約半分を占めるアマゾンの熱帯雨林は世界的に有名だが、北東部に広がるセルタン(奥地)については意外と知られていない。ピアウイー、セアラ、パライーバ、ベルナンブッコ、アラゴアス、バイーアといった州の内陸部は降雨量が少なく、旱魃や飢饉が起こりやすい乾燥した荒地が広がっている。厳しい条件のなかで細々と農業や牧畜が営まれ、熱帯の楽園として潤う沿岸部に比べて観光や商業も低迷し、ブラジル国内でも特に貧しい地域である。仕事を求めて、北東部からリオ・デ・ジャネイロサンパウロなどの都市に移住する人々は、ファヴェーラ(スラム街)の住人となることも多い。

 セルタンにおける貧しい生活は50年代以降、シネマ・ノーヴォの作家によって新しい映画美学として取り上げられた。『乾いた人生』(’63)でネルソン・ペレイラ・ドス・サントスは、旱魃ですべてを失った小作農の男が、飢餓から逃れるために妻子を連れて荒野を流れていく姿を描いた。乾ききっててひび割れた大地、容赦なく照りつける白い太陽、飢えと渇きの悲惨を描いたモノクロームの映像。対象を冷たく突き放したドキュメンタリー・タッチの演出によって、セルタンの風土を審美的に表現した。

 グラウベル・ローシャの『黒い神と白い悪魔』(’64)は、視点人物にセルタンの貧しい牛飼い・マヌエルを据えた。マヌエルは入植者である地主と契約を結び、生まれた子牛の分配を貰うことで生計を立てる。旱魃で牛が死んだことを報告した彼が、死んだ牛がお前の取り分だと言われ、地主を刺し殺すところから映画は始まる。マヌエルとその妻は逃亡して狂信者の集団と合流し、さらにランピオンやコリスコといったセルタンに実在し、後に口承文学で伝えられた山賊の仲間につき従うことになる。法の力の及ばない奥地では、武器を奪って反乱を起こした者はカンガセイロと呼ばれる義賊となった。ローシャの「飢えの美学」は、セルタンにおける飢餓や貧困のイメージを神話的且つ寓意的に再構築する。ローシャは社会を変革するための暴力、信仰、神話の諸力をセルタンの大地から呼び覚まし、それらを社会批判と抵抗闘争へ結びつけようとして高度な映画の方法論を駆使した。

 こうしてセルタンはブラジルの映画史のなかで、反抗と革命の土地として特権的な地位を得ることになった。ポルトガル人が入植した時代から都市は沿岸部にでき、そこで問題を起こした者は内陸の不毛な大地へ逃げた。セルタンはそうした社会からはみ出したアウトサイダーや抵抗者が、反政府勢力、逃亡奴隷、義賊へと変貌を遂げる危険な土地なのだ。

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(C)Kirsten Johnson

 一九九〇年代以降、現代のブラジル映画は次々とセルタンへ回帰していく。かつては抵抗闘争や社会批判のシンボルであった大地に無数のひび割れが入り、個々人の幸福や欲望を実現するための横断線が縦横無尽に引かれることになる。ウォルター・サレスの『セントラル・ステーション』(’98)は様々な寓意に満ちた映画であった。主人公のドーラがリオの駅で、読み書きのできない地方出身者のためにする代書屋という行為。あるいは事故で死んだ女の代わりに、少年と北東部へ父親探しに出かける旅。都市に移動した「ノルデスチーノ(北東部出身者)」の代わりに、都市生活で疲弊した老女が旅に出ることで、ブラジルらしさの核心としてのセルタンを「癒しの大地」として再発見させたのだ。

 反対に『オイ・ビシクレッタ』(‘03)は、一家がセルタンから都市へむかう映画である。パライーバ州の失業した男ロマンが月1000レアルの仕事を求めて、リオまで3000キロを家族7人で自転車で旅をする。これは実話を基にした映画だが、セアラ州ジュアゼイロ・デ・ノルチを通り、南部の聖地リオへ向かう「巡礼行」といった趣が強い。ロマンの一家はジュアゼイロの聖地・シセロ神父像に立ち寄り、持ち上げれば神の恵みが受けられるという奇蹟のテーブルに挑戦して失敗する。年間100万人の巡礼者が訪れる神高い土地でも、現代において奇蹟が起こることは難しく、人間が自分たちの足だけで歩まねばならなくなったことを暗示している。

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(C)Kirsten Johnson

 『セントラル・ステーション』がセルタンへの帰還を、『オイ・ビシクレッタ』がそこからの脱出を描いた物語だったとすれば、『スエリーの青空』(’06)はそのどちらでもない、セルタンで宙吊り状態になる映画である。セアラ州内陸部の町イグアトゥ。恋人とサンパウロへ駆け落ちしたエルミーラが、2年ぶりに赤子を連れて帰ってくる。エルミーラは前髪だけを中途半端に脱色した21歳の女の子。彼女が帰ってくる貧しい家には男がおらず、祖母と未婚らしい叔母が不安定に暮らしている。後から帰ってくるという恋人を彼女が待ち続ける空白的な時間と、段々と電話が恋人につながらなくなるコミュニケーションの断絶感。赤子を預けて夜遊びにでかける彼女の未消化な青春と、前の彼氏ジョアンと再会してセックスする度に逆に強まっていく孤独感。

 何よりも秀逸なのは、エルミーラが街の市場でウィスキーの抽選クジを売るうちに、自分の肉体を抽選クジの景品にするようになるというアイデアだ。彼女は若い肉体で男たちの目を引くのだが、現金と体を直接交換する私娼にはなりきれず、抽選クジを媒介にして間接的な売春行為を行う。スエリーと名を偽ってまで彼女が金を貯めるのは、サンパウロに戻って恋人を奪還するためではなく、とりあえず町を出て「ここから行ける一番遠い場所」へ行くという生半可な目的のためである。

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(C)Kirsten Johnson

 監督のカリン・アイヌー(ウォルター・サレス監督作『ビハインド・ザ・サン』の脚本にも名を連ねる)は新聞記事になった女性の話から、このアイデアを借用したというが、これはセルタンと現代ブラジル映画の関係をほのめかすアレゴリーとなっている。また、過度にならない程度のカサヴェテス的な即興演出、スタイルと呼ぶまでには至らない手持ちカメラの多用、適度にブラジル映画の伝統を意識したフィルムの色合いは、むしろ成功していると言える。こうした『スエリーの青空』の映画全体を貫くフォルムは、アイヌー自身がセアラ州フォルタレザで生まれながら、ハリウッドで映画経験を積んだという、どっちつかずの履歴に起因しているのかもしれない。

 グラウベル・ローシャは『アントニオ・ダス・モルテス』(’69)において、神話や伝説の存在として甘んじることを許されず、中途半端に現実の歴史へ帰還せざるを得なくなったアントニオの、そのセルタンにおける彷徨をこそ描こうとした。『スエリーの青空』もまた同様である。最後にクジで当選した男と寝て、生半可な私娼となったエルミーラは、息子を祖母に預けて、たった一人でバスに乗ってセルタンを出ていく。彼女は映画の冒頭と同じ状態に戻り、何の発展も解決もなく映画は終わる。ジョアンがバイクで追いかけてくるが、窓外の彼の姿にエルミーラは気づかず、彼もまた半端に追いかけただけで町へと引き返す。このとき深い青空の下に広がる荒野は、彼女にも観客にも何も語りかけてこない。現代のブラジル映画はセルタンという舞台に回帰しながらも、その表層を当てもなくさ迷い続けるしかない。そのような現在の映画状況に突きつけられた問いを喚起することに、この映画は主眼を置いているのだろう。

text by 金子遊(映画批評家

スエリーの青空

プロデューサー:ウォルター・サレス ほか

監督:カリン・アイヌ

脚本:マウリーシオ・ザカリーアス、フェリペ・ブラカンザ、カリン・アイヌ

2008年2月9日(土)よりシアターイメージフォーラム他にて全国順次公開

配給:オンリー・ハーツ

公式サイト:www.suely-aozora.com