映画芸術

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演劇を観よう2<br>中野成樹(演出家)インタビュー

今回は9月20日~24日に新作『遊び半分』を発表する中野成樹さんにインタビューをお願いしました。「中野成樹+フランケンズ」という集団を率いて活動する中野さんは、西洋古典劇を「誤意訳」と称する独自の方法で再生させ、注目を集めている存在です。古典劇のエッセンスと現代を生きる私たちの感覚が絶妙にミックスされた作品は、上品でありながらポップで、多くの演劇ファンを魅了してきました。そんな魅力的な作品を生み出す中野さんを稽古場に訪ね、お話をうかがいました。

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ー―中野さんは、映画はご覧になりますか。

 ほとんど観ません(笑)。

――やっぱり映画と演劇は根本的に違うとお考えですか。

 大学に入った頃、映画と演劇を対比させて考える人が周囲にいたような気がするけど、いまはそんなことを考えている人はあまりいないんじゃないかな。どちらかというと、演劇と似てるのは文学なんじゃないかと思ってる人が多い気がしますね。

――演技というレベルでも全然違いますか。

 少なくとも僕がやりたいと思い描いているものは違います。近代劇という言い方をするんですけど、戯曲・台本に書かれているものがすべて、という作品もあるじゃないですか。テーマとかいろんなものが脚本の会話やストーリー展開に全部書かれているという前提で、戯曲に書かれている人物を再生させていくのが近代劇的な演技だとすると、それだけではないことをやっているのが現代劇の演技なのかなあと。「~だよ、と言って泣く」と戯曲に書いてあることを、実際に俺らが生身の身体を使ってやるとどういう状態になるのか。世間一般の感覚だともっともらしく泣くだろうけど、リアルに俺たちの感覚を使ったら泣けないんじゃないか。でも、泣かなくてもいいんじゃないか、泣かなくても成立するよね、と逆算していくんです。つまり、登場人物になりきるのではなく、書かれている人物はどんな感じの人間なのかと俺らの身体で再生する作業をしています。

――中野さんは西洋古典劇の上演が多いですが、時代としても地域としても、現代日本との違いが際立つ作品を選ばれているというのは?

 普通の演技って、どれだけ本物っぽいかですよね。でも絶対、嘘なわけですよ。基本前提としてはそれは嘘じゃん、と見せたい。その上で、嘘だけど起こりうるねとナビゲートしてあげるのが役者なんです。本気で成立させようとするとこんな感じなんじゃないと。嘘であることが演劇の好きなところで、それを感じやすいから海外の戯曲を扱っているところもありますね。日本の現代物を扱うと、嘘だと簡単に見破られちゃうじゃないですか。下手だなあとか言われるのが癪なので(笑)。海外物だと日本人には正解はわからないし、日本語でやっているから海外の人も嘘か本当かわからない(笑)。

――中野さんは「誤意訳」と銘打って、戯曲を書き直すわけですよね。そのときに、設定を現代にしたり、現代の社会問題を反映させる方法もあると思いますが、誤意訳というほど元の戯曲を壊していないというか、残せるところは極力残したいという姿勢を感じたのですが。

 いくつか意識していることがあって、原作を壊す壊さないで言ったら、壊さないことを前提としています。だから「誤意訳」といってるけどまんまじゃんと文句を言う人もいるんです。昔の古典をメチャクチャに壊すのを期待したのに普通じゃんと。でも、壊してイキがりたいわけではない。

 例えば、60~70年代のイギリス製のカッコイイジャケットをちゃんと着るなら、パンツはこれ、靴はこれ、ネクタイはせずシャツは第二ボタンまで開けるのが本物、とかルールがあるんだろうけど、ラフに普通のジーンズと合わせて着ても意外とかっこよくない?と。それは着崩すのがかっこいいというわけではなくて、ジャケットが持っている伝統的な重みを自分なりに取り込んで楽しみたい。それが誤意訳というか、フランス料理に醤油かけて箸で食ってもよくない?みたいな(笑)。自分の解釈でしかないけど、海外の傑作と一緒にいられるんだなという感覚。

 でも、そこで料理が台無しになってしまうからやめてくれという人もいるし、醤油かけて箸で食べるだけで自分ふうとか言わないでよという人もいる。そこはバランスですね。

中野成樹+フランケンズ『暖かい氷河期』(2006年)

原作:C.ゴルドーニ「二人の主人を一度に持つと」より

誤意訳・演出:中野成樹

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【撮影:飯田研紀】

――中野さんは、日々多くの戯曲を読まれていると思いますが、上演したいと感じる作品と、面白いけど上演する作品ではないなと感じる作品の違いはどこでしょう。『遊び半分』で言えば、上演したいと感じたポイントは何だったんでしょうか。

 今回の原作は「西の国のプレイボーイ」という題名なんですけど、読んでいて「遊び半分」というタイトルが抜け出てきたときに、これはいけるなと。面白いなと思っても、その言葉がポンと抜け出せない戯曲もあるんですよ。シェイクスピアの『ハムレット』も面白いと思ったけど抜け出せなかった。どんなマイナーなものであっても、読んだときに言葉がストーンと抜けてくると上演したいと思いますね。それが演出プランみたいなものになるんですけど、自分にとって切実な問題がそこに含まれているかどうか。

 『遊び半分』は、男が遊び半分でやりましたと世間に訴える話なんですけど、最初は絶対に真剣だったんですよね。だけど、ある期間が過ぎたときに真剣さがなくなっていく。それは自分の逃げ口上と同じなんです。演劇は続いているけど、人間関係にしてもプライベートにしても、真剣さがなくなってトラブルが起きたりする。最初の新鮮な気持ちって何だったんだろう、それがどうやって終わってしまうんだろう、終わったあとにどんな顔するんだろう、みたいなことは真剣に考えないといけないんだろうなって。

 いまは演劇について真剣な顔して喋ってますけど、10年後には演劇もやってなくて、子供がいて「あんなの遊び半分だったんだよ、パパは」とか言ってるかもしれない。でもあのときの真剣さを取り戻して認めておくべきだなと。まあ、齢とったということですね(笑)。「新鮮は、泣きそうです。」とチラシにコピーをつけたんだけど、新鮮とそれが薄れていく過程、そういったものがうまく織り交ぜられているなあとこの戯曲を読みながら感じたんですよね。

――今回、誤意訳の作業で苦労されたことはありますか。

 作者のシングはアイルランドの面白い言葉遣いを用いた作家だと言われてるんですけど、そういう部分を生かそうとすると、現代に生きる自分たちの感覚をはさみづらくなってくる。といって、詩的なものだけを生かしていくとすぐに飽きてしまうんですよね。でも、俺、確実にこの物語に魅かれていたもんなという気持ちもあって、最終的には魅かれた部分に忠実にいこうと。確かに詩的な言葉だけど、普通の言葉が詩的なのではなく、登場人物が詩的な言葉をあえて語っているシーンでもあるから、そこは発想を変えればどうにかできるかなと。

――まだ初日まで3週間以上ありますが、稽古しながらどのようなことを感じていますか。

 今回、日大芸術学部演劇学科の学生も出ているんですけど、若い人は想像以上に下手です(笑)。素直に下手だなと思う瞬間もあるけど、なんかいいなと思える瞬間もあって、そこを大事に使っていきたいですね。最近は、観たことない人を誘うときに想像以上に下手ですから、という言い方をしてもいいのかなと思うようになりましたね。中野さん、芝居やってるんですか、今度観に行きますよと言われたときにふと怖さを感じるんですよ。想像しているものとは違うと思いますよ、下手ですよと言ってしまいたくなる(笑)。世間一般が考える演技は映画のそれをさすと思うんだけど、映画的な観点では僕らの演劇はメチャクチャ下手です。でも、僕にはそれがすごく面白い演技で、映画とは違う演技があるという手ごたえはあるんです。

――若い人たちを今までのメンバーと交えてやろうというのは、中野さんが望んでいたことだったんですか。

 今年から大学の授業で学生たちと芝居を作ることになって、若い人達とやったときに下手だけど面白いと思う子がいたんですよね。もしかしてうちのメンバーはこのまま凝りまっていると、世間一般のうまい演技に向かってしまうかもしれない。もしくは、そこの葛藤で揺れ動いてしまうかもしれないと思っていたので、下手な感じの人を入れることで、もう一度演劇の演技って何なんだろうと問いたかったんです。僕自身も考えなきゃいけないし、メンバーにも考えてほしい。もちろん、若い人たちにも、お前は下手なんだよと伝えたい(笑)。

 ヘタウマでごまかす気はないし、下手と連呼しているけど、ものすごくテクニックを積み重ねて作っているから、僕の作ったルールではうちのメンバーは超実力派なんですよ。自分の持ち味で勝負しているわけではなく、計算してテクニカルにやってます。

――あえて主張はしないけど、こっちのほうが絶対いいと思っているんですよね。

 そこは強く言わないといけないですね(笑)。もちろん、映画にしろ演劇にしろ、いろんな味わい方があるから、演技もいろんなやり方があっていい。ただ、演劇は他のジャンルと違うということを自覚してやっている人は少数派なんじゃないかな。演劇やっている人が100人いたら、自覚的なのは10人くらい。その10人は当然活躍してるけど、ほかの人は演劇ならではのものがあるということを考えていない。演劇人同士なんだけど、そこは分離している感じですね。

――今回の上演は9月20日~24日で7ステージが予定されています。この上演日程についてはどうお考えですか。できることなら1ヶ月くらいロングランしたいですか。それとも、短期のほうがいいでしょうか。

 難しい問題ですけど、演劇を徹底的に考えて創作していく考え方と、それをビジネスにしていかないといけないという2種類の考え方があって、ビジネスにしていくならば当然ロングランをするしかない。僕もビジネスにしたいけど、純粋に創造していく立場から言うと、今回7ステージやって、半年後に3ステージ、その1年後に10ステージやる、と間を置いて、それで作品がどう変わっていくのか長いスパンで楽しみたい。それが芝居ならできるんじゃないかな。アマチュア考えなのかもしれないけど、1週間やるとやっぱり体がぼろぼろになって感覚鈍ってくるんですよ。

――観客からすれば贅沢なことですよね。これだけ緻密な稽古を重ねておきながら、10ステージもやらないんですから。

 チケット代を3倍はとらないと(笑)。誤解を恐れず大学生に言うんです、演劇って敷居が高いものだからなって。たくさんの人を喜ばせたいならディズニーランドに就職しろと。演劇はより多くの人に同じような感動を与えるものではなくて、観る人が味わいを知らないと面白くないものなんだと言っていいんじゃないかな。

――それは観客を選んでいるわけではないですよね。

 敷居が高いといっても、タカが知れてると思うんですよ。例えば、ふきのとうの佃煮があって、何にも知らない人は苦いと怒るかもしれない。でも、この苦味がおいしいとわかれば一気に味覚が広がる。ほんのちょっとの敷居なんだけど、それがいまの日本ではすごい高さになっている。日時を決めて2時間に3500円を払うというのは、世間一般の感覚では高いと思うんですけど、ほんのちょっとの苦労を惜しまなければ楽しめるし、僕がやってるのはどちらかというと敷居が低いと思うんですよ。

――作品を拝見して、上品でエレガントなんですけど気取ってないのが素敵だと思いました。こういう作品を作られる中野さんはおそらく上品な方なんだろうと思ったのですが(笑)。

 自分で言うのもなんだけど上品だと思うんですよ(笑)。自分が日々感じていることを人様にさらしていくから、慎重にならざるをえない。照れますしね、自分のことをしゃべるのは。照れ隠しで冗談を入れてしまうし、でも本当のことを言わないといけないし、僕の人間性ですね。力強くとか激しくという劇作家もいるけど、僕が好きだったチェーホフモリエールは、どんな出来事も醒めて見る視線をもっている。そこに影響を受けていますね。今回も真剣にやってるけど、下品な感じにはやっぱりならないんです。暴力的になっても疲れるだけじゃん、何も変わらないよ、それよりいま笑える範囲で笑っておかない? 意外と楽しいじゃん……そういう感じですね。

取材・構成:武田俊

【公演情報】

『遊び半分』

原作:J.M.シング「西の国のプレイボーイ」より

誤意訳・演出:中野成樹

出演:フランケンズ(村上聡一、福田毅、野島真理、石橋志保)

ゲスト:ゴウタケヒロ(POOL-5)、松崎史也(エレキ隊)、

藤達成、竹田英司、大澤夏美、斎藤淳子

2007年9月20日(木)~24日(月・祝)

赤坂REDシアターにて

「中野成樹+フランケンズ」公式サイト

http://www.frankens.jp/