『戦争と一人の女』
冒頭のシーンから印象的です。主人公の男が病院から出てくるとき…病院を背にして歩いてくる男の黒い顔は、顔が見えないその黒い姿は、まるで黒い幽霊が病院から出てくるような印象です。この男には片腕がありません。戦争で腕を失くし…。次のシーンで女性主人公が登場します…タバコを吸っている…この女性には腕がありますが、感覚を、喜びと快楽を失った女です…不感症の女。そしてこの女性がついていく小説家は…小説が書けずにいる小説家です。人物がみな不具、または欠乏の状態から始まるこの映画は、日本の戦中、戦後に日本人が陥っていた精神的な恐慌、または日本人のメンタリティーそのものを赤裸々に見せている映画だと思います。
普通、このようなタイプの映画には、ある象徴やメタファーに閉ざされてしまいがちな危険性が伴いますが、この映画は手持ちカメラによる独特なカメラワークと、ズームイン、ズームアウトのような奇妙な躍動感を与えているカメラの美学によって不思議な現在性を帯びています。セクシャリティと戦争、または権力の関係から政治的、歴史的なテーマを描く映画は多くありましたが、この作品にはそれらと違う雰囲気と空気があります。監督の演出による非常に微妙な「現在化した空気」のようなものが存在しています。同時に、この作品は大変勇敢な映画です。戦犯国家における一個人や被害者を通じて、「私たちも同じく戦争の被害者でした」というような嘆きや言い訳を語るのではなく…そうかといって、単純に無気力な自己幻滅と自己蔑視を通じて自虐に徹する映画でもありません。歴史を遡って言うべきことを伝える、メッセージを投げかける映画です。腹がすわった、勇気のある映画。
男の主人公がカメラの正面を見据えて「天皇陛下の命令により強盗と、強姦と、殺人を犯しました」と、カメラを凝視して語るシーンがあります。韓国やアジアのすべての国々、第二次大戦や太平洋戦争の被害者であった多くの国々で、この映画を必ず観なければならない理由があると思います。真に良識のある…まだ生きている日本の知性の面貌を見せてくれる映画だと思います。特に、日本の右傾化が懸念されている昨今の時流の中、このような映画が作られたということに、心から拍手を送りたいです。
『ディア・ハンター』のような映画があります。その中でロバート・デ・ニーロ、メリル・ストリープ、クリストファー・ウォーケンが演じる登場人物たちの物語を観ていると、とても悲しく、悲劇的です。そのような悲しみと悲劇性に深く共感しながらも、いざ一歩引いて映画を観ると、アメリカがベトナム戦争に対してこのような作品を作ったということについて、『ディア・ハンター』をベトナムの人々が観たならばどのような気分になるだろうか? そんなことを想像すると、何かすっきりしない、もやもやしたものが残ります。
また、ケースは違いますが、私が尊敬するアニメーション監督、高畑勲の『火垂るの墓』も本当に美しいアニメーションで、戦時中に飢えで死んでいく少女の姿に号泣しない人はどこにもいないと思います。しかし、そのような戦争の責任が誰にあるのか、そのような歴史的な責任と集団的責任は誰にあるのかを正面から見据えて問いかけた映画は、おそらくこの映画が初めてではないでしょうか。
大島渚や若松孝二のように挑発的で政治的なメッセージを投げかけてきた日本の監督たちをこれまでリスペクトしてきましたが、その流れをくむ生きた知性の作品が誕生したと思います。俳優の演技もみなさん素晴らしく…勇敢で素晴らしい演技でした。特に、体当たりで演じられた女性主人公、江口のりこさんの熱演も忘れることができません。特に、まるで花火のように空襲の火花が飛んだとき、初めて少女のように満面の笑顔で空を見上げる表情は忘れられないシーンとなりました。
ありがとうございました。
ポレポレ東中野 http://www.mmjp.or.jp/pole2/
21:00より上映
上映終了後、下記トークイベント開催!
11/18(月)深作健太(映画監督)×荒井晴彦×司会・寺脇研
11/20(水)PANTA(ミュージシャン)×井上淳一×司会・片嶋一貴(プロデューサー)