映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『無常素描』 <br>記録(ドキュメント)ではなく、情報(ニュース)でもない、アクチュアルな映画 <br>神田映良(映画批評)

 現実を切りとる、映像という媒体。「現実」を写している面と、写す者、或いは編集者の意思によって切断しているという、この両面が、特に報道やドキュメンタリーでは常に問われる。かつてアンドレ・バザンは、『失われた大陸』の、白人の到来を待つ野蛮な首狩族の男を捉えたショットについて、この男はカメラマンの首を狩らなかったのだから、男が実際には野蛮人ではない事を映像が証明している、と言っていた。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のような擬似ドキュメンタリーで、大抵は撮影者が死亡してしまうのも、「現実」の危険を写しているという設定ゆえの必然なのだ。  現実には撮影不可能なショットによってのみ見える何ものかを見せるのがフィクションの力とするなら、東日本大震災の被災地に取材したドキュメンタリーである『無常素描』はむしろ、撮るという行為の限界そのものを見つめる。だから、『ヒア アフター』の津波シーンのように、災害の恐ろしさや破壊力を、実際にそれに呑み込まれるような当事者性によって描きはしない。また、上述の「首狩族」のショットのような、仮構による「現実」の再構成もしない。所謂「映像の力」を誇示する作品ではなく、眼前に広がる現実に直面し、絶句しながら、眼差しだけは開き続けようと耐えている、素の映像なのだ。 mujo_main.jpg  一面灰色と化した光景に耐え続ける、長回しのカット。その混沌とした光景に目を凝らし、かつてそこにあった人々の暮らしを見出そうとすればするほど、一瞬の出来事が、全てを過去へと押し流し、永遠とも思える時間的な距離をそれらの光景にもたらした事を痛感させられる。そこに広がる「瓦礫」は、その一つ一つに目を凝らせば、実際には、梅が漬けられたガラス容器であり、動物の形をした置物であり、プラスチック製の籠であり、プリクラを集めたアルバムであり、等々、そこに確かに人の生活が息づいていたのが見てとれる。  「カギを必ず締めてください」と書かれたプレートの付けられた、保育園の門。その周囲もやはり瓦礫の光景が広がるばかりであり、内と外とを隔てていたはずの門の本来の意味もまた、喪失されている。そこに貼られた「捜索済」と書かれた紙は、風雨に耐えるための透明ビニールが被せられている。片方だけになった、子供用の黄色い雨靴。その傍で黒いビニールが風に激しく動き続けるのと対照的に、雨靴は微動だにしない。そうした数々のカットを見つめ続ける行為は、時間の停止という事態に耐え続ける時間であり、それはまさに、追悼の時間だった。 mujo_sub5.jpg  外国人男性二人に取材したシーンでの、そのうちの一人が語る、「YouTubeで船の映像を見て来ました……信じられません……」という言葉。彼を殆ど絶句させる、その周囲に広がる惨状と、「YouTube」という言葉の距離。自宅で小さな画面を通して映像を見る行為と、現実にその場所に立ち、その光景に取り囲まれる事の距離。この距離感は、連日、震災関連の報道を「視聴者」として目にしている私たちもまた共有しているものだろう。  その一方、被災者たちが記念写真を見つめるシーンには、映像というものが、失われた光景を手元に残す最後のよすがなのだと再確認させられる。被災者家族が思い出を語り合いながら見ているアルバムの写真は、泥に表面を汚されながらも、その隙間から、かつての日常をそのままに伝えてくる。また、本来ならアルバムにでも収まっていたであろう、幾つもの写真が、滑らかな表面に光沢を放ちながら壁に貼られているのを捉えたカット。カメラが更にその周囲へと動いていくと、そこは体育館で、遠い向こう側の壁にも同じような写真が貼られているらしいのが見える。床には、籠に収められた遺失物が夥しい数、並べられている。全ての人間的な意味づけを奪われて「瓦礫」と化した場所から、失われかけた意味を取り戻そうとする行為。これもまた、自然に抗う「闘い」の一つと呼んでも言い過ぎではないだろう。 mujo_sub3.jpg  桜の花が咲く下を、人が道を歩いていく、平和とさえ思えるカットは、だが、その道に備えられたガードレールの一部が曲がり、眼下の町並は、巨大な力によって掻き回された後の混沌を見せている。遠くに見える山、桜、鳥の囀り。静かな海。人が形作り、意味づけてきた光景が破壊される中で、自然だけは冷酷なまでに平静だ。だが、津波というものの圧倒的な破壊力を知った後では、海の波を写したカットを見ても、その白い波頭や波音にも、暴力的なものを感じずにはいられない。  もう海には住みたくないという女性の言葉を傍らで聞いていた、孫娘と思しき少女が、「でも、海好きなんだもん。離れたくない。太陽の光を浴びると超キレイになる」と言い、取材者側に「海の近くに住んでみた方がいいですよ」と勧めるシーンがある。そこで彼女の言葉が途切れ、表情が固くなったように思えたとき、カメラは、一瞬、その表情に寄るかに思えたのだが、哀しみの表情を捉えてドラマ的な意味づけを行なうような作為を躊躇うように、曖昧に揺れ動く。こうした、「現実」と映像との間の距離感に自覚的である姿勢は、全篇を通して一貫している。  この映画は、報道ではない。だから、「情報」を伝えるための字幕やナレーション等は無い。被災された高齢者の方の語りは、方言がきつくて意味がとり難い箇所もあるのだが、観客は、実際に彼/彼女らと対面するのと同じように、その素の言葉のまま聞くことになる。そして、取材を受けた人々の言葉の多くは、絶句と紙一重のところで発せられている。親戚が亡くなったという女性は、テンションを高めていないと、落ち込んでしまい、動けなくなってしまう、というその言葉のままに、何度も目をギュッと閉じながら、言葉を搾り出す。言葉を探し、重ねながらも、思いに見合う言葉に達しない、というもどかしさに追い立てられるように語り続ける姿は、事態が言葉を超えてしまっている事を、強く印象づける。 mujo_sub4.jpg  次々に現れる被災地の惨状に息を呑む中で、時おり挿まれる、僧侶で作家の玄侑宗久氏のインタビュー・シーンは、僅かな安らぎに似たものを感じさせる。それは、破壊された町に漂う「沈黙」とは違い、インタビューの行なわれた部屋にあるのは、玄侑氏の言葉に耳を傾けるための「静けさ」だからだ。そこでは言葉が、理性が、恢復を試みられているのだ。そして、被災地の映像に重ねられる玄侑氏の読経の声は、言葉では捉え尽くす事のできない惨状と、その無の沈黙に対し、祈りの沈黙と等しい声を重ねる事で、喪失の光景に寄り添おうとしている。  連日テレビで触れる被災地の映像は、情報を効率よく伝える役割である報道という性格上、言葉による解説と共に、短いカットを重ねていく。それ故、その場所を見つめ続け、そこに在り続ける事がどういうものなのかは、感じ難い。避難所を訪れた首相が帰ろうとした際、被災者から発せられた「もう帰るんですか!」という声は、効率的に情報を得ようとする私たち「視聴者」にとっても、無関係とは言えないのかもしれない。夥しい映像の波の中から零れ落ちている、停止したまま積み重ねられていくような「時間」という現実。そして、被災者が日々感じている感情は、そうした時間との付き合いと切り離せないのではないか。こうしている今も被災地に流れているであろうその時間を、幾分かでも感じさせる『無常素描』は、飽和状態とも思えるニュース映像を通じて知った気になっていた私たちにとって、単なる記録(ドキュメント)ではなく、情報(ニュース)でもない、アクチュアルな映画として提示されている。 無常素描劇場予告編 『無常素描』 監督・企画:大宮浩一 企画:長尾和宏 撮影:山内大堂 編集:遠山慎二  整音:石垣哲 構成:辻井潔 (C)大宮映像製作所 オーディトリウム渋谷にて6/17(金)19:30より先行上映  6/18(土)よりロードショー他全国順次公開 http://mujosobyo.jp/