映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

オルタナティブ・シネマ宣言――『TOCHKA』『谷中暮色』『行旅死亡人』 <br>松村浩行、舩橋淳、井土紀州トーク

 テレビ局主導の製作委員会による映画が増え、全国にシネコンが濫立する動きと軌を一にするように、観客が話題作ばかりに集中する「一本かぶり」と呼ばれる状況が目立つようになった。一方で、映画制作を志す若者たちは上映会を開くこともなく、DVDを焼いてはあちこちの映画祭に応募し、拾い上げられるのを待っている状況がある。

 いま、私たちはこうした時代の流れを甘受しているだけでいいのだろうか。こうした現在の映画状況において、「オルタナティブ」の提唱が求められているのではないか。alternativeとは通常「取って代わる」という意味であるが、「型にはまらない」という意味もある。オルタナティブであるということ――映画を自主製作で作り、言説を作り世に広め、自主公開し、観客をゼロから開拓していくこと――単純明快ではあるが、この一連の「貫徹」によって現状に風穴を開けようとする動きが生まれつつある。一つは、SPOTTED PRODUCTIONSの直井卓俊を起点とする、『あんにょん由美香』『ライブテープ』の松江哲明、『シャーリーの転落人生』の冨永昌敬らの動き、そしてもう一つはNode of cinemaの吉川正文を起点とした動きである。

 吉川は2007年の『ラザロ―LAZARUS―』、2008年の『靖国YASUKUNI』『コロッサル・ユース』など、孤高の作家による公開の難しい作品を、独自の宣伝戦略で公開し話題を集めることに成功している。その彼が宣伝に携わる3本の映画、『TOCHKA』『谷中暮色』『行旅死亡人』の公開に合わせ、日本映画の「オルタナティブ」を問い直すイベントが開かれた。「オルタナティブ・シネマ宣言」と題された本イベントにおけるトークの模様を採録する。

(司会:吉川正文 文責:木村文洋『へばの』監督)

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吉川 今日は、松村浩行監督と舩橋淳監督の過去作品を上映しました。一挙に観て改めて思ったのですが、新作まで作風や主題がそれほど変わっていない、という印象を受けました。

松村 人間、変わらない。そんな話をつい最近誰としたのか……ただ、ある意味でそれを意識的に変えようとしているのが井土さんではないか、と吉川と話していたのですが。ただ、そこでも変えられないものがあるのではないか、と。

吉川 『オルタナティブ・シネマ宣言』の趣旨ですが、今回の三者、作品も作風も違うのですが「インディペンデントで製作して公開までをやる」という点で共通項があります。その三者の試みをいま検証することで、インディペンデント映画の可能性が見えてくるのではないか。まずそれぞれの新作の印象を伺いたいのですが。

松村 舩橋さんの『谷中暮色』も僕の『TOCHKA』も、場所に対する映画ですよね。ただそこに注がれる舩橋さんの目線が、異邦人であるというか。同じ日本人でありながら、舩橋さんの場合は土地に根ざしながらずれている、というか。井土さんの映画は……デカい話ですよね。しかしデカい話かと思えば、実は個にこだわった小さな話こそを描いている。そこに注目すべきだと思いました。

舩橋 松村さんの『TOCHKA』はやはり主役二人の素晴らしさ、そしてそこに外側から介入してくる他のキャラクターがいいですよね。映画に偶然性を取り込んでしまう身振り、というか。特に犬が素晴らしい。犬がどういうふうにシーンをつないでいるかが、気になる。寒々とした荒野なんですが、どこか牧歌的な感じもあり、カネフスキーの映画に出てくるような人の出方だと思います。井土さんの『行旅死亡人』は、シナリオの構築力。怪談のような語り口なんですが、主人公が過去を探っていくにつれ、過去が現在より息づいてくる。それは過去のお話を“謎解き”でバラしていくというのとは違う、映像によるサスペンスが光るシーンがあり、そこに非常に感銘を受けました。

井土 惹かれているモチーフは近い気がします。場所が物語の求心力となっており、またその場所が持つ歴史性がテーマになっている。松村さんのトーチカ……戦争時に作られ、今は役立たずになった無用のもの。松村さんはその建造物をカメラの暗箱に重ねながら、一組の男と女の過去と現在を語っていく。舩橋さんのほうは、谷中という場所にあった五重塔ですね。もう焼けてしまって無いが、五重塔の在った空間が今もポッカリあいている。不可視の五重の塔に吸い寄せられるように映画を構築する。僕も似たようなものに惹かれるんです。『百年の絶唱』ならダムに沈んだ村と小学校、『ラザロ―LAZARUS―』ならシャッター商店街、『行旅死亡人』なら不在の名前とかアイデンティティといったものになるのでしょうか。ある不在の空間、その空白を想像力で埋めようとするところから映画を構想している。それぞれアプローチは違うけれども、その3本を観て、違いの面白さを感じてもらえれば、と思います。

吉川 今日の大きなテーマは「自分たちで映画を作って、劇場公開し、宣伝までやっていく」ということです。松村監督は劇場公開する、ということが初めてです。やってみてどうでしたか?

松村 僕にとってはいまここでお話することは、いま抱えていることを詳らかにすること、現在進行形のことです。僕のその“映画を見せていく意識”は、どうしようもなかった。それをいま、自分の中で鍛え上げている。しかしだからといって、無理をして自分を高飛び込み台から突き落とすようだったかといえば決してそうじゃない。ある意味、自然だった。きっとそれは今の時代性というか――僕個人の事情だけではない、もっと大きなものが形成されつつある――『ラザロ―LAZARUS―』とか、『へばの』の木村くん達の動きであったり、今のいろいろなもの。すっとそこに踏み込まざるを得ない雰囲気があって、始めた。

吉川 いま出来上がりつつある動きの中で上映をし、例えば次に映画を作る際に変わると思いますか? 劇場で公開し、お客さんにしっかり見せるということを通して。

松村 最初に戻るんですが、変わらないところは変わらないと思います。ただその“変わらないもの”を映画としてどう構築していくのか。経済的なものもありますよね、それはまさに“いま ここにある危機”として。次に映画を撮る資金をどういうふうに調達して、最後の興行までやり、さらに次の作品までを考える“一本の線”として完結させたいとするならば、意識は変わると思いますね。この作業をしなければ……作ったところで完結、で止まっていたかもしれない。

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松村浩行

吉川 舩橋監督は、劇場公開デビュー作『echoes』から配給会社がついていました。

舩橋 『echoes』『BIG RIVER』までは物理的に人にやってもらっていました。ニューヨークに住んでいて、公開直前に日本に帰ってきて取材を受け、またアメリカへ戻る。公開時にまた帰国し、様々なパブを読む。それがどれだけ、色んな方に動いて頂いたかは、いま身にしみています。今回は“どういった人に観てもらうのか”。中高年の人に観てもらうのか、若い人に観てもらうのか。いつ公開するのかまで話し合って、やったので……映画を見せる、ということについてはクリティカルに考えるようになりました。そして、今日のタイトルの“ゲリラ・フィルムメイキングの時代”。自分たちで低予算で映画を作り、自主配給までをやる……となると、作り手のプロデュース能力も重要になってくるわけです。限られた予算を何に使うのか。それは、映画作品として何を突出させるのか、ということ。『TOCHKA』なら、藤田陽子菅田俊……2人にまず重きを賭け、北海道のあの景色で勝負すると決める。動かない。『行旅死亡人』ならジャーナリスティックな切り口からシナリオを突出させ、どんなキャストであろうとも勝負できる、ということから始める。もちろん長宗我部陽子さんが本当に素晴らしかったと思いますが、それでもまずシナリオありきのところから勝負しているな、と。テレビ局主導の大きな映画……俳優の名前はあっても監督の名前はポスターにも載らないような映画があふれる情勢で、小さいけれど力ある映画をどう突出させて作っていくかは、金銭的な事情だけではなくテーマ的なところで考えていかなければならない。『谷中暮色』ならば、谷中の場所の記憶……形骸化した場所の過去にカメラを向けていくことは現代において、普遍的な力強いテーマになるのではないかと思いました。小さな規模で終わらさずに、公開しようと思いました。

吉川 井土監督は、常々「企画性が大事である」とおっしゃっていますよね。

井土 例えば純粋に映画表現を突き詰めるというようなやり方でもいいんです。しかし、僕は企画性が何より大切だと思う。そのほうが、世間に対して波及力があるからです。そうでなければ自主製作映画は狭いサークルの中で自足することしかできない。誤解を招くことを承知で言えば、ハッタリが効いているかどうか、そこを僕は大事にしますね。なぜそういうことを思うようになったかといえば、僕はシナリオライターとして20代から仕事を始め、いわゆる局制作の映画の仕事もしてきた。そして、そういう映画を企画する人たちも企画についてはメチャクチャ考えているんです。大作を馬鹿にすることはたやすいんですが、メチャクチャ考えている。僕はその中で揉まれながら、一緒に仕事してきたプロデューサーが「この企画は俺には出来ない」「これはやられた」と思うようなものでなければ、勝負できない、と思ってやってますけどね。

吉川 『ラザロ―LAZARUS―』(07)から現在まで、状況的に変わってきているような感じはありますか? さかのぼって『百年の絶唱』(98)からでもいいのですが。

井土 まず、この規模のものをサポートしてくれていたメディア・雑誌がいま廃刊になっている。そこはとても厳しいなとは思うんですが、変わらないものってあるんですよね。それはね、僕らインディペンデントで映画を作るってことは、面白がりたいからやるんですよね。作ることも祭りで、公開することも祭り。僕や仲間にとっては。その祭りをいかに面白がるか、楽しそうだったら、なんか人が集まってくるんです。そこはこの規模の映画を作って公開するうえで、僕は失ってはいけないと思っています。吉川くんと常々話していても、いろいろ現状の厳しさにぶつかり、つい衰弱しがちなんですが、“いや祭りなんだから、ぶちあげなきゃ”と思い直すんですよ。そこで面白そうなことやってるんだなと思ってもらえれば、人は集まってくるっていうのはおそらく変わらない。

吉川 いかに祭りをぶちあげるかというのは難しいし、すごく大事なことですね。例えば松江哲明さんは毎回、あれだけの祭りを展開する、凄いことだと思います。ああいった盛り上がりも、この取り組みも、また他の違う動きでも、様々な場で多発して一つのシーンを作れれば、と思うんです。

舩橋 祭りというのは確実にありますが、ただ映画は何度か、開いたり閉じたりというプロセスがあるので、それだけではない。脚本はグーッと密に詰めて……撮影はキャスティングや現場で一気に開く、で、仕上げでぐーっと煮詰めて劇場公開で一気に開く……外の世界へ向けて閉じる/開くの繰り返しです。で重要なのは、初期の閉じた段階で映画が最も訴えたいもの、最も突出したいというものをしっかり練り上げていれば、外に開いたとき、公開したときの祭りは、やり甲斐があるものになると思う。僕はかつて映画学校にも行っていて、いま講師もしていますが、いつも相談を受けて話すのは“一年、二年、ずーっと自分はこのテーマでやっていて飽きないか、信じられるか”ということですよね。

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舩橋淳

吉川 僕はそれでもいま、若い人が足を運ばなくなってるんじゃないか、ということに悩んでいるんです。そこがかつてとは違うところではないかと。

井土 いや、でもね、仕掛ける側の努力も必要だと思います。松江監督は従来のサブカルチャーを扱うメディアが壊滅状態に陥っている中で、しっかり自分たちでメディア空間を作り出していると思いますよ。松江君の場合はそこが圧倒的に新しいし、僕も勉強になる。僕らが従来やってきた戦略とは違う何かがそこにはある。『TOCHKA』は最初観た時は難しいと思ったけれど、レコード屋とか喫茶店とかどこ行っても『TOCHKA』のチラシが置いてある。これは僕らがやってきた戦略だけど、これも大事だと思うんです。そういったことが結果につながるはずだ、と僕は信じています。しかし、一方で自分たちなりのメディア空間の在り方を、従来とは違う形で、僕たち作り手も模索する必要がある。

吉川 『谷中暮色』でも出演者をはじめとする若いスタッフがガムシャラに動いています。そうした動きを始められたのは、僕にとっては『ラザロ―LAZARUS―』なんです。『ラザロ―LAZARUS―』は大勢のお客さんが入った、人がどこに行っても『ラザロ―LAZARUS―』のビジュアルが目に付く、というようにした。しかしたった2年前だけど、すでにある変化があるように思うんです。それだけでは足りない、というか。

舩橋 僕は一つ思い当たることがあります。やはり、社会との距離の取り方、だと思いますね。“ゲリラ・フィルムメイキング”。これはいま、世界中で起きている現象なんですね。不況――アメリカにしろ中国にしろ、お金がない。デジタル・テクノロジーで映画を撮る。例えばアメリカの『Wendy and Lucy』(Kelly Reihelt監督)、去年のカンヌ国際映画祭で上映されました。この映画をはじめとする、ある監督群がニューヨーク・タイムズの映画欄でも最も話題を呼んだ。「ネオ・ネオリアリズム」という特集記事なんです。イタリアのネオリアリズムがもう一回ニューヨークで起きているんじゃないか、という言説です。『Wendy and Lucy』……まさしく『TOCHKA』のようなんですね。ミシェル・ウィリアムズだけが出てくる映画、あとは全員素人。そして彼女が飼っている犬を探すだけの映画、その意味でウェンディとルーシー、なんですが。その描き方が素晴らしい。カンヌに行っただけはなく、ミニシアターでヒットも飛ばしニューヨークで広く観られている。アメリカで撮っているイラン系移民の映画監督、Ramin Bahraniも誰も知らないような俳優でやりながら同じような現象を作っています。「Goodbye Solo」(2009年ベネチア国際映画祭horizon部門——賞)はアフリカ系移民のタクシー運転手が、白人の差別主義者との交流を結ぶ、そのやりとりにアメリカの現在の全てが集約されている。現在進行形である社会問題を扱い、分かりやすくシンプルに表現する。これが世界中で起きているのではないか。『TOCHKA』ならば私観ですが、現代日本のあの位の年齢の男性。50代中盤を迎える男性の、精神性が反映されているのではないか。それは現在の東京で撮るのか、もっと抽象化した舞台――例えば最初から北海道で撮るのか。そこが作家のチョイスです。そういったことは考えられました?

松村 最初から北海道で撮るとは考えていませんでした。より抽象度が高い話だったんで、現実の土地の磁場とは切り離した、まったく形でできるんじゃないか、と。でも土地の力は強いものでしたね。ある意味、全てを決定してしまう。そして彼の男性像について言えば、内蔵している現代性としてはあったかもしれませんが、それについての意識化はいまでも十分にできていませんね。

舩橋 それでも、あの菅田俊の“何かを抱えている”背中は素晴らしい。

吉川 最後にそれぞれ、今後もこういった製作や上映には可能性を感じていますか?

松村 僕にとっては現在進行形なんです。それに終わりはないんだけれど……いや、どこかで区切りの線をひくとすればとりあえずの終わりはあると思うんだけれど、とにかくそこから得た知恵と、実行の方法を今後に蓄積したい。そして何より求めるのは……この作業を共有したメンバーそれぞれがその知恵や方法を盗み、踏みつけてどんどん次へと行ってほしい。「祭り」は違う形で粘っこく、次へとつながってほしい。

舩橋 映画をどういう人に見せたいかを考えるのは、次はどういった映画を作りたいか、につながっていくようにしたい。何が足りないのかを常に話し合い、ぶつけ合うような。 

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井土紀州 

井土 こういう宣伝活動、上映のなかで僕は次の企画を考えて、みんなと話すんです。それはね、次の祭りを考えたいし、考えていないと怖いんですよね。予算は分からないけれど次はこういったことを考え、こういうテーマをやりたい。そんなことばかり話している。僕はそういう場が好きなんですよね。欲望を組織し続けていくことを、生きる上で大切にしています。

吉川 やはり、やり続けていくことが大事と思います。

(10月27日 アテネ・フランセ文化センターにて)

【各作品公開情報】

TOCHKA(2008年/93分/松村浩行監督)

10月24日(土)~11月13日(土) 連日 21:00-

東京 渋谷ユーロスペースにてレイトショー 

公式HP http://www.tochka-film.com/

トーク情報〉※舞台挨拶は上映前、トークは終映後

・10月24日(土)藤田陽子菅田俊、松村浩行、舞台挨拶

・10月25日(日)高橋洋(脚本家・映画監督)

・11月2日(月)大谷能生(音楽家・評論家)

・11月3日(火・祝)舩橋淳(映画監督)

・11月4日(水)七里圭(映画監督)

・11月7日(土)廣瀬純(批評家)

・11月8日(日)鎌田哲哉(批評家)

・11月12日(木)菅田俊(俳優)

・11月13日(金)松村浩行 舞台挨拶

谷中暮色(2009年/107分/舩橋淳監督)

10月31日(土)~ 連日 11:10-

東京 新宿シネマートにてモーニングショー 

公式HP http://www.deepinthevalley.net/

トーク情報〉※終映後予定

・11月3日(火・祝)中沢新一(人類学者)

・11月7日(土)舩橋淳監督

・11月8日(日)鈴木卓爾(映画監督)

・11月14日(土)万田邦敏(映画監督『接吻』)

・11月17日(火)前野まさる(東京藝術大学名誉教授)

行旅死亡人(2009年/112分/井土紀州監督)

11月7日(土)~ 連日 13:35- 15:50- 18:10- 20:30-

東京 新宿シネマートにてロードショー 

公式HP http://www.kouryo.com/index.html

〈イベント情報〉

・10月31日(土)~11月13日(金)「ラザロLAZARUS-」復活祭

・11月14日(土)「Variant Heroines All Night Long」

井土紀州監督新作2本プレミア上映オールナイト! 

監督+女優総出演の真夜中トーク

23:30- 『土竜の祭』『犀の角』『百年の絶唱』上映

シネマート新宿において