映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『青い鳥』 <br>原稿用紙5枚の呪縛 <br>近藤典行(映画作家)

 まずどうやって、どのタイミングで、主人公の顔を画面に登場させればよいか? 本作で監督デビューを飾った中西健二監督は、初監督の力みとは無縁の落ち着き払った手つきで、丁寧に描写を積み重ねることにより、その時を引き延ばす。キャメラは冒頭から、ゆったりと街を走るバスの中で、一人の男の後頭部と文庫本を捲る手元を切り取る。それらの画面を眺めているわたしたちも、彼の後ろの座席に腰を掛けて目的地に向かっているように、心地よいリズムに乗せられて、すんなりとこの映画の世界に導かれていく。  それと平行して、画面にはもう一人の主人公である、学生服姿の少年が自転車で登校する様子が示される。いささか急いでいるのか、切羽詰っているような感触を抱かせながら、彼は一旦進み出した道を引き返すように迂回すると、閉店してしまったらしいコンビニエンスストアーの見える場所までやって来る。ここで初めて、思春期特有の繊細さと深憂に満ちた少年、園部(本郷奏多)の幼い顔をキャメラは捉える。いくらナイーブとはいえ、あまりに沈痛なその表情を目にしては、この物語がすでに決定的なことが起こってしまった、その後から語られ始める物語なのだと容易に察せられる。バスに乗車していた男の顔はといえば、いまだ目にすることができない。彼の背中や足元を追いながら、映し出される中学校の校舎や校内の様子、そして教師であるらしい身分を徐々に理解させるように断片的なカットが繋がっていく。 青い鳥 サブ.jpg  ようやく主人公である村内先生(阿部寛)の顔が画面に映し出されるのは、臨時で受け持つことになったクラスの教壇に立った瞬間であり、観客は生徒たちと同じ状況で村内先生と初めて対面することとなる。そしてこの子供たち同様、生徒たちをゆっくりと見渡すように送りかけてくるその視線の強度に、わたしたちも言葉を失い、息を呑むしかない。これから何が起こるのか先の読めない空気と、しかし絶対に何かが起こるであろう予感だけが胸をざわつかせる。自己紹介しようとする村内先生の言葉は、極度の吃音で少し進んではつっかかり、またひっかかる。しかしそれでも必死に話そうとする村内先生の言葉を耳にしていると、否応なく緊張は高まっていく。やがて始まる生徒たちのざわめきが嘲けりの笑いに変貌したとき、決定的な言葉が村内先生の口からもたらされる。  なぜ園部が、登校途中わざわざ閉店したコンビニを見に行ったのか。そのコンビニ店が家業だった同じクラスの野口は、東ヶ丘中学2年1組の大半の男子から店の商品を持って来いと要求されつづけ、エスカレートしていくその要求に応えられなくなって自殺を図り、一命こそ取りとめたが、事件として報道された結果、引っ越しを、転校を、余儀なくされたのだ。その事件の後、休職した元担任の代役として村内先生が赴任してきたというわけである。 main_s.jpg  村内先生はまず、野口君の机を元の場所へ戻させることから始める。そして毎朝、野口君の席に向かって、不在の野口君に向かって、「野口君、おはよう」と声を掛ける。2年1組の生徒たちは村内先生のその挨拶以上に、野口君の席そのものの存在に怯えている。疎ましく思った男子生徒たちが、その机を再度運び出し、目の届かない校舎の外へと撤去するのも当然といえば当然だ。結局、雨に濡れながら村内先生自らの手でその机はまた教室に戻されることになるのだが、学校の机はどれも同じものであり、毎年さまざまな生徒によって代わる代わる使われる。そうでなくとも席替えでもしてしまえば、それはすぐさま「野口君の」机ではなくなるはずなのに、それでも逃れられない重圧として2年1組の生徒たちが過敏に意識せざるをえないのは、その机が頑なに「野口君の」机であることを止めないからだ。  それはいじめていた(たとえ本人たちにその自覚がなかったとしても)生徒たちの手によって油性マジックで落書きされた「コンビニエンスストアー NOGUCHI 東ヶ丘中店」の刻印によるものに他ならない。友達だと思ってくれていたはずの野口君に一度とはいえ、ポテトチップスを要求してしまったことが、彼を一番傷つけたに違いないと悔やみ、自らも大きな傷を負ってしまった園部は、泣きながら必死になって机のそのマークを消しゴムで消そうとする。しかし、たった一度でも要求した事実が消えないように、刻印も、野口君の傷も消えることはない。 080305-03-0121.jpg  事件後、園部を除く2年1組のほぼ全員は、原稿用紙5枚以上が絶対条件の反省文を何度も教師たちに直されて書き上げたことで、完璧に反省は為された、事件はリセットされたという気持ちになっている。体裁としての反省文は、忘却するための装置として機能したにすぎない。教室に張り紙された「相手を思いやる心」という標語も、廊下に設置された、悩み事を書いて入れるための青い鳥BOXも、その役目に加担しているだけだ。  形だけの反省文を全員分読み終えた村内先生は、灰になって残らぬようにすべてを焼却炉に放り込み、最後の授業でもう一度前の反省文と違ったものを書きたい生徒だけに、自分の言葉で本当の反省文を書かせようとする。もちろん反省だけが目的なのではない。その気持ちを忘れさせないように、リセットさせないために書かせるのだ。その行為は野口君に直接ものを要求しなかった、いじめに加担しなかった女の子を含む、周りで見ていただけの生徒にも同等に、忘れてはいけないという責任を背負わせる。なぜそのような儀式が必要とされるのか、それはヘラヘラ笑っていながらだったとしても、野口君が本気で放っていたはずの言葉を本気で受け取らなかった責任が厳然としてあるからだ。このとき反省文を書かずに自習を選択した生徒たちにも、書かなかったという、それでいいと思ったという記憶がずっと留まって消えることはないだろう。責任を放棄するのと引き換えに背負う十字架が軽いものであるはずがない。  ここまで観てきたわたしたちは、自分が既にこの映画とは無関係ではいられなくなっていることに気付くだろう。本気の言葉を受け流してしまった生徒たちが背負わされた責任が、映画を前にしたわたしたちにも寸分違わぬ鋭さで問われているからだ。本気であるとは俄かに信じ難い映画がそこいらじゅうに氾濫している現在において、本作『青い鳥』がとりわけ貴重なのは、この責任から逃げることを許さない苛酷なまでの真剣さに尽きている。 『青い鳥』 監督:中西健二 原作:重松清 脚本:飯田健三郎長谷川康夫 出演:阿部寛本郷奏多伊藤歩ほか (C)2008「青い鳥」製作委員会 11月29日(土)より新宿武蔵野館シネ・リーブル池袋ほか全国ロードショー 公式サイト http://www.aoitori-movie.com/