映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『ロック誕生』 <br>ロックがまだ若かったころ <br>金子遊(映画批評家)

ロックの誕生  ロックの誕生はいつだったのか。  植草甚一の『ニューロックの真実の世界』によれば、ロックンロールの誕生は1954年のオハイオ州クリーヴランドでのことだった。あるラジオDJが、黒人むきに製作されたR&Bのレコードを白人の十代にむけてかけてみたとき、大きな反響があった。  それが全米的に評判になると、リズム・アンド・ブルースという代わりに、古いブルースの歌詞にあった「My baby rocks me with a steady roll」(おれのいい娘が横ふりを続けながら、ゆすってくれる)という歌詞があり、そこから「ロック・アンド・ロール」という造語ができたという。  とはいえ、リズム・アンド・ブルースの本質は、差別されてきたアメリカ黒人の苦痛や怒りの表現のほうにあった。ブルースは失恋などの世俗的な心の痛みを解消するものであり、ゴスペルは神聖なものに対する感情を大っぴらにぶちまけるものだった。  黒人音楽をルーツに持つロックンロールは、白人によって大衆化されたダンス音楽なのだが、60年代以降、既成概念や体制に対して反抗する「ロック」へと変貌していく。これが日本で定着するにはさまざまな紆余曲折があり、それを関係者へのインタビューとライヴ映像で掘り起こしていくのが『ロック誕生』というドキュメンタリー映画である。 ロックメイン.jpg グループ・サウンズ   映画について考える前に、少しおさらいをしておく必要がある。まず、日本における「ロック」の最初の衝撃は、1966年6月のビートルズ来日であった。初期のビートルズは黒人音楽を貪欲にとりこんだバンドのひとつだが、他にベンチャーズローリング・ストーンズにも触発されて、和製ムーブメントのグループ・サウンズ(GS)が生まれる。  ビートルズの武道館コンサートは6月末から5公演おこなわれたが、このとき前座をつとめたのが、ジャッキー吉川ブルーコメッツ、ブルージーンズ(と内田裕也)、いかりや長介ザ・ドリフターズなどのグループだった。そして、彼らが「ウェルカム・ビートルズ」を演奏したときに、ボーカルに内田裕也が入っていたことは、その後のGSの終焉とニューロックの誕生をみていく私たちの目には、とくに興味深いことに映る。 ‘66年にビートルズは世界ツアーをしていたが、8月末のアメリカでのステージを最後にライヴ活動を停止した。多重録音、テープの逆回転、サウンドエフェクトを駆使した転換期の『リボルバー』を録音した後であり、このアルバムはライヴでの再現性を前提としない実験的な作風だった。それとは反対に、日本ではビートルズ来日を起爆剤として’67年から’68年にかけてGSが黄金期をむかえる。マッシュルームカットに、アイビールックやモッズから派生したファッションが流行し、さまざまなグループがヒット曲を飛ばした。  しかし、いくつかの理由から、GSこそが日本のロックの祖だとは言いづらいところがある。たとえば、GSはグループ(バンド)演奏という形態をとっていたが、自作曲が中心ではなかった。また、レコード会社が主導して結成させていたり、プロの作詞・作曲家をつけていたり、ミュージシャンとしての自立性が弱かった。そして何よりも音楽性をみたときに、ヒットした曲の多くが歌謡曲と大差ないものだった。 GSからロックへ  そうはいっても、GSの周辺から「ロック」が生まれてきたことも否定はできない。たとえば、横浜本牧から出てきたザ・ゴールデン・カップスの存在があげられる。’66年に日本がビートルズで沸いているのを尻目に、当時米軍の基地があった横浜の本牧で、米兵相手に本格的なリズム・アンド・ブルースを演奏していたのがカップスだった。  ‘04年の映画『ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム』(監督サン・マー・メン=共同演出)は、’66年から’72年に活動したこのバンドの全貌を明らかにするとともに、日本におけるロック胎動期を知るための貴重なドキュメントともなっている。  映画によれば、本牧ダンスホール「ゴールデン・カップ」から命名されたこのグループは、外国人とのハーフが結成したバンドとして話題になった。だが、実際はデイヴ平尾、ミッキー吉野らは日本人、エディ藩は中華系で、ハーフはルイズルイス加部くらいだった。カップスはGSとしてデビューして「長い髪の少女」などのヒット曲をだしたが、もともと本格的なロック志向であり、人前では自分たちのヒットソングを演奏しなかった。  アンプの上に腰かけて演奏し、テレビ収録に遅刻してくるカップスの「かっこいい」不良ぶりが映画では紹介されている。彼らは、黒人ブルースマンが好んだ「モジョ・ワーキング」や「ウォーキン・ブルース」などの曲を英語の歌詞で演奏した。GSから脱皮し、ルーツ志向のロックを追求するカップスの姿勢は、この映画でインタビューを受けている内田裕也らにも影響を与え、後にニューロックのひとつの潮流をつくることになる。 はっぴいえんど_2.jpg はっぴいえんど 日本語ロックの先駆  海外の曲を英詞で演奏した「かっこいい」カップスに対して、『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』の早川義夫は、「かっこ悪い」日本語でロックすることを選んだ先駆者である。そんな早川義夫が中心となり、東京町田の和光高校出身のメンバーらで結成したジャックスは、’68年に『からっぽの世界』でレコードデビューする。彼らはフォーク・ソングから出発したが、ジャズなどを取りこんだプログレ的なアプローチの曲づくりや、文学青年的で内省的な歌詞、早川義夫の情念あふれる歌いかたなどで、一部に熱狂的なファンをつくった。  とくに「マリアンヌ」におけるサイケデリックなギターと、怨念をむきだしにしたような歌声から一挙に壮絶な叫びに達する早川義夫のボーカルは、十分に「ロック」の名にあたいするものだ。若松孝二監督の『腹貸し女』のサウンドトラックを担当するなど、ジャックスはアングラ文化との関係も深かったが、売れなくて’69年に解散してしまう。  解散後の’69年に早川義夫はURC(アングラ・レコード・クラブ)から、ソロ・アルバム『かっこいいことは…』を発表するが、そのレコード製作中の数ヶ月間を、映画作家原将人が撮影したインタビュー・フィルムが『自己表出史・早川義夫編』である。 当初はジャックスのライヴ映画を撮る予定であったのが、バンドが解散してしまい、原将人は早川ひとりを追うことにして、アルバム製作中のURC事務所での様子やステージの模様を撮影し、新宿の街を歩きながらインタビューをした。原将人の目からながめられた、当時の早川の息づかいや街の姿が伝わってくるところがすばらしい。アルバムは全曲が早川によるピアノやギターによる弾き語りで構成されたものだが、このソロ・アルバムと原将人の個人映画との幸福な出会いが生んだ、奇蹟的な映画作品となっている。 メイン.jpg 遠藤賢司 ふたつの潮流  単純化をおそれずにいえば、『ロック誕生』であつかわれる70年代「ニューロック」には主にふたつの潮流があるといえよう。ひとつはザ・ゴールデン・カップス内田裕也のようにGSのなかから出てきて、その歌謡曲化に反発し、英語の詞で世界に通用するロックを目指した流れ。もうひとつは、早川義夫のようにフォーク・ソングやアングラ文化を背景に登場し、日本語をロックにのせようとした「はっぴいえんど」に代表される流れ。  『ロック誕生』の冒頭のインタビューで内田裕也はいう。「みんな金と名声に負けて、歌謡曲のほうにいっちゃうんだよね。ジャズとかロックンロールっていうのは、もともと奴隷で連れてこられた黒人の音楽から発生したものだからさ。世界中に通用する差別された人たちの悲しみが根底にあるわけ。それで、GS続けていたらロック人生が終わると思って、ヨーロッパへ放浪の旅に出たわけよ」。  そして、内田裕也は世界に通用するロック音楽を、日本から発信することをライフワークと定めて帰国する。この時期のサイケ・ロックな内田裕也とザ・フラワーズの演奏は、’68年の『あゝひめゆりの塔』(監督 舛田利雄)の沖縄のゴーゴークラブでの場景や、『コント55号 世紀の大弱点』のライブシーンなどで見られるが、そのスタイルの肝はカバーソングを外国人と変わらない質の高さで演奏するところにあったといえる。  このバンドを母体として内田がプロデュースしたのが、フラワー・トラヴェリン・バンドである。『ロック誕生』の野外ライヴの映像にもあるが、巨大な象の置物の上に乗って、アフロヘアーでマラカスを振るジョー山中の姿といい、ハードロックを強く意識した音づくりといい、十分に世界基準の要件を満たすものであった。実際、アメリカとカナダでレコードデビューしてツアーを行い、和製バンドによる海外進出の先鞭をつけた。 フラワー・トラヴェリン・バ.jpg フラワー・トラヴェリン・バンド 日本語ロック論争  いまきくと意外にも思えるが、当時の日本のニューロックは英語で歌うミュージシャン(内田裕也、FTB、ザ・モップスなど)が主流であり、日本語はロックのメロディに乗らないというのが定説で、英語で歌って海外で成功することが彼らの目標であった。『ロック誕生』のインタビューで中村とうよう(音楽評論家)が話すように、英語派=内田裕也と日本語派=ミッキー・カーティスの間には、大きな考え方の違いがあった。そして、これが公の場で論争になったのが「日本語ロック論争」と呼ばれるものである。  「日本のロック情況はどこまで来たか」(「ニューミュージック・マガジン」’71年5月号)の座談会を読むと、同誌のレコード賞を2年連続で岡林信康早川義夫はっぴいえんど遠藤賢司などの日本語ロック派が総なめにし、英語派=内田裕也が不満に思ったのがきっかけで論争がはじまったらしい。座談会の出席者のうち内田裕也福田一郎、折田育造、中村とうようが英語派寄り、ミッキー・カーティス、大滝詠一松本隆が日本語派だ。  『ロック誕生』でも「はいからはくち」の貴重なライヴ映像が見られるが、はっぴいえんどの作詞家であった松本隆は、一枚目のアルバム『はっぴいえんど』で「肺から吐く血/ハイカラ白痴」のような両義語の技法などを駆使して、日本語ロックの独自の世界を切りひらいていった。当初、作曲担当の大瀧詠一細野晴臣は音楽性を重視するがために、ロックに日本語の詞をつけることに反対していたというのだから、おもしろい。  内田裕也は、はっぴいえんどの「春よ来い」という曲は歌詞とメロディとリズムのバランスが悪く、「日本語とロックの結びつきに成功したとは思わない」と音楽的に批判している。内田の「フラワー・トラヴェリン・バンドやザ・モップスについてどう思うのか」という問いに対し、松本隆は「ぼくたちは、人のバンドが英語で歌おうと日本語で歌おうとかまわないと思うし、音楽についても趣味の問題だから」とクールにかわしている。 村八分_1.jpg 村八分 ロックの未来  論争とはいっても、実質的には内田裕也が当時絶賛されていた「はっぴいえんど」に食ってかかったものであり、その後、二枚目の『風街ろまん』を発表して、はっぴいえんどがロックに日本語をのせることに成功すると勝負はついてしまった。そして、『ロック誕生』でも紹介されているように、頭脳警察、イエロー、ハルヲフォン、村八分、クリエイション、四人囃子といったバンドが現れ、あらゆる音楽要素を吸収していき、ニューロックの世界にも分類が難しい「後期折衷学派」(植草甚一)の時代がやってくる。  その後、70年代に登場したキャロル、井上陽水荒井由実、サザン・オールスターズといったミュージシャンが、ロックを商業的なマーケットにのせ、音楽的にポップスと融合させるなかで、ニューロックは「ニュー・ミュージック」やポップスに取りこまれていった。ロックと日本語という観点からいえば、彼らは英語派でも日本語派でもない、サビなどの歌詞の一部だけに英語を使うという、その後の主流になる方法を生みだしていく。  もともと硬派なニューロックが生き残る市場は、日本にはなかったのかもしれない。はっぴいえんど松本隆が歌謡曲の代表的な作詞家になっていったことを考えると、もし反対に英語ロック派が勝利していたらどうなっていたのか、などと想像してしまう。眼前にあるポップ・ミュージックを聴くときに、私たちが今までロックの何を生かし何を殺してきたのか、『ロック誕生』はそんなことを考えさせてくれる映画でもある。 『ロック誕生』 監督:村兼明洋 出演:内田裕也、ミッキー・カーティス、近田春夫中村とうよう遠藤賢司、フラワー・トラヴェリン・バンド、はっぴいえんど頭脳警察村八分四人囃子ほか 2008年/日本/配給:日本出版販売/102分 (c)2008「ロック誕生」Partners 10月25日(土)からシアターN渋谷にて公開   公式サイト http://www.rock-tanjo.jp/