試写室だより『コドモのコドモ』 <br>みんな「コドモのコドモ」なのだから。 <br>加瀬修一(ライター)
『コドモのコドモ』は、子供が本来持っている「生きる力」をもう一度見直し、真摯に命と向き合おうとする。とても誠実な作品だ。制作者は「小学生が出産する」というショッキングで露悪趣味になりかねない題材を、寓話として描こうと試みている。
しかし観終わってから、寓話にしてはリアル、リアルにしては取りこぼしている現実の問題があるのではと考えさせられた。その問題を描く事で、「子供が子供を産む」という話がより実感をともなって迫ってくるのではないだろうか。
まず出産以前にセックスの問題がある。主人公の春菜(甘利はるな)は幼なじみのヒロユキ(川村悠椰)とある日「くっつけっこ」をする。つまりこれがセックスなのだが、本人同士はまるでそんな意識も知識もない。春奈は特別ヒロユキが好きなわけではない。なんで「くっつけっこ」しようと言ったのだろう?
テレビやファッション、誰が好き嫌いだと情報を積極的に求める年頃の子が、「性」にだけ興味がないというのはどうなんだろう。情報が遮断される環境であったとしても、それを越えるのも子供の持つ好奇心の強さではないだろうか。本当に何も知らない子供だったら、せいぜいお互いに触りっこするか、抱き合うぐらいじゃないだろうか。2人が「くっつけっこ」しようと思うまでの描写が足りない気がした。
大人の問題は、いつもしっかり見ていると言いながら、忙しさにかまけて子どもの変化を見逃してしまったり、ヒステリックに子供に当たってしまったり、大人が自分の事だけに向かってしまう瞬間だ。春菜が母親に言えなかったのも、優等生だった美香(伊藤梨沙子)が八木先生(麻生久美子)に反抗するのも、もとをただせばそこに行き着く。大人の都合は子供には判らない。それを子供がどう思っているのか大人は判らない。
春菜の赤ん坊を見て、やや記憶の怪しくなったおじいさんに「子供は宝だ」言わせているが、これ母親が言ってあげた方がいいんじゃないかと思った。自分を見てもらえてないと感じていた春菜に、こんなに勇気づけられる言葉はないはずだからだ。
問題が起きてから騒ぐPTA、保守的な学校といったステレオタイプな表現はもういいのではないか。子供とどう対峙するのか答えは簡単ではないが、大人だって何でもわかって何でもできるわけじゃない、でも本気なんだとなりふりかまわず判ろうとする姿勢を見せ続けて行く事が必要なのではないか。子供はきっとそれを見て判断するはずだ。
最後に命の問題。春菜とヒロユキの子供はいわばハプニングだ。その奇跡に目を奪われてしまうのだが、春菜の子供と高校生である朋子(森郁月)の中絶された子供の命の差はなんなのか。朋子の子供は未熟にしても彼と愛し合った結果だ。「まだ高校生だから」「まだ子供だから」「親には言えない」……隠れて中絶するしかない。そう思わせるものはなんなのか。ヒロユキ一家は土地に住みづらくなり東京へ引っ越していく。駅で朋子と彼氏がヒロユキを見送るシーンがある。「頑張ってね」の言葉にうなずくヒロユキ。この時の朋子と彼氏の敗北感に似た空気はなんなのか。命そのものはどれも同じように尊い。では命が差別されてしまうのは何が問題なのか。そこをもっと描いて欲しい。
春菜とヒロユキは母と父になったがまだ親ではない。自身が大人にもなっていない。子供の成長と共に親になるのだ。彼らを守るのが親、友達、そして社会の役割だと思う。生まれてくる子供は現実そのものなのだから。
くり返すがこの映画はとても誠実な作品だ。現場の雰囲気や演者の呼吸を重視した演出は、子供達を輝かせていた。監督が粘り強く信頼関係を築いていった賜物だと思う。子供たちの真っ直ぐ真剣な眼差し、春菜が出産の決意をするシーン、春菜とヒロユキが子供の生まれた後に交わす会話、「ヒロ、自信ある?」「ないけど、頑張るよ。」には涙が出る。
『コドモのコドモ』は監督をはじめ制作者、俳優、全ての関係者が悩みに悩んで生み出した子供だ。その子供とどう向き合うのか。今度は僕らの姿勢が問われている。
『コドモのコドモ』
監督:萩生田宏治 脚本:宮下和雅子、萩生田宏治
原作:さそうあきら(コドモのコドモ 双葉社刊)
撮影:池内義浩 照明:舟橋正生 録音:湯脇房雄 美術:松尾文子
編集:大重裕二 プロデューサー:根岸洋之、定井勇二
音楽:トクマルシューゴ 主題歌:奥田民生(SUNのSON キューンレコード)
キャスト:甘利はるな、川村悠椰、宮崎美子、草村礼子、麻生久美子ほか
日本/122分/35ミリ/カラー/1:1:85/DTS/
C) 2008『コドモのコドモ』製作委員会
9月27日(土)より、渋谷シネ・アミューズ、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー
公式サイト http://kodomonokodomo.jp/