映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『イントゥ・ザ・ワイルド』 <br>いつどこでいくつになっても、〈荒野〉を目指せ。 <br>加瀬修一(ライター)

 1992年の春、クリス・マッカンドレスはアラスカの荒野へ分け入った。そこで見つけた奇妙なバス。彼はここを拠点に「何ものにも縛られない完全な自由」を目指す。アラスカの大地は、どう彼の魂を解放したのか。

 原作『荒野へ』は、登山家でジャーナリストのジョン・クラカワー渾身のノンフィクションだ。家族をはじめクリスと出会った人々に直接会って話を聞きながら、同じように荒野を目指した先人たちと比較し詳細に旅を記録した。またアラスカの現場にも赴き、そこの状況から科学的な検証もする。だが最大の魅力は、ルポとして客観性が乏しくなる事を恐れず、クリスへの共感を示し自身の思い入れを吐露した点ではないだろうか。

 『荒野へ』は大きな反響を巻き起こす。多くの読者が心を揺さ振られた。ショーン・ペンもその一人だった。

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 ショーン・ペンは1991年に初の監督作品『インディアン・ランナー』を発表したあと、ハリウッド的な商業主義に嫌気がさし、引退を表明した事がある。『荒野へ』に強く惹かれたのには、そんな経緯があったからだろう。彼はすぐに映画化に動くが、幾つもの現実的な問題が重なり断念。しかし彼の思いは以降ずっとくすぶり続ける。その間に彼は引退を撤回し、俳優としても監督としても着実にキャリアを重ねる。そしてついに自身の脚色・監督として念願の映画化に辿り着く。当初企画してから10年近くが経っていた。

 監督は、クリスのアラスカでの生活と、そこに至るまでの生い立ち、それまでの旅の経緯を交互に描きながら、旅で出会った人との親交を4つの章立てで構成した。これは観客が心情的にも入り込めるようにした巧みな構成だ。時に臨場感あふれるドキュメンタリーのような、時に詩情溢れる映像美で、クリスの心に機微を表現したのは『モーターサイクル・ダイアリーズ』で撮影を担当したエリック・ゴーティエ。そして僕らも共に旅をする。彼の旅の最後の瞬間まで。

 クリスは全てを捨てると、アレグザンダー・スーパートランプ(通称アレックス)を名乗り、新しい自分として歩き始めた。アトランタからアメリカ大陸を横断、アラスカを目指し北上する。そこで出会う沢山の人々。ヒッピーのカップルのレイニーとジャン、農場主のウェイン、孤独な老人ロン。その誰もが彼の人柄に好意を抱き、親心から無謀な旅に警告する。しかし彼の信念は揺るがなかった。クリスは決して人間が嫌いなわけではない。むしろ快活で社交的だ。偽名で生きる事は解放感に繋がるが、自己防衛にも成り得る。心からの親交を持ちながら、本名を明かさなかったのは、本能的に裏切られることを恐れたからではないだろうか。

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 ヒッピーを親に持つ16歳のトレイシーとの出会いは印象的だ。彼女は急速にクリスに惹かれ、思い切って彼を誘惑する。気持ちを知っていながらもクリスは優しく彼女を諭し、抱くようなことは無かった。これがアラスカ行きを前に、女にうつつを抜かしている訳にはいかないという若い頃特有の潔癖さなのか、ただのカッコつけなのか、それとも妹のカリーンの面影を見たのか、誰にもわからない。寝たからといって、彼が旅をやめるとも思わない。だが情を重ねたという体験は、もしかしたら後の旅の意味さえ変えたかも知れない。アレックスとして生きる事が真実ではない、自らの固い意志や潔白さが時に人をひどく傷つける、ということにまだ気づいていなかった。

 アラスカに辿りついた彼に対し、自然は厳しかった。飢えてみるみる痩せ細り、ベルトの穴が増えて行くのが痛々しい。やっと仕留めたヘラジカも腐らせてしまう。限界を感じた彼は、この生活を切り上げようとするが、増水した川に阻まれて結局バスに戻る。自然は更に試練を与えた。植物図鑑を片手に食べられる草木を漁るのだが、ちょっとしたミスから有毒な植物を食べてしまい、一気に衰弱が進む。慎重だった彼が、どれほど追い詰められていたのかが分かる。泣き叫ぶ姿は滑稽であり、どうしようもなく悲しかった。

 彼はこう記した、「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合った時だ」こうも言う、「正しい名前で呼ばなくてはならない」これは植物のことだけでなく、偽名を使ってきたことが真実には繋がらないということを指している。彼は自然ではなく、もっと大きな「死」と向き合った瞬間にそれを理解したのだ。そして最後に残した言葉、「僕は幸せだった、みんなに神のご加護を」にはなんの気取りもない。その下には小さく本名のクリストファー・ジョンソン・マッカンドレスと記されていた。

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 弱りきった体を横たえる、不規則になる心音、一つの問いが頭をよぎる。もし家に戻って両親の胸に飛び込んでいたら、今見ているものを見られただろうか?小さな窓から見える青空、眩い光の美しさ。かすかに微笑むと涙が頬を伝った。最後の呼吸。リアルに死を描いていながらも、陰惨にならない詩的な力強いシーンだった。

 皮肉にも、広く自由な世界を目指した彼の旅は、狭いバスの中で終わった。そして、魂が無限の世界へ解放されるようにカメラはゆっくりと高く引いて行く。アラスカに来て4ヶ月が経っていた。

 クリス・マッカンドレスが目指した〈荒野〉とはなんなのか。それは全ての始まりで終わりでもある、絶対の真理なのではないだろうか。そしてそこを目指すことはそのまま「生きる」ということではないか。監督のメッセージもそこにある。バックパックを背負い、死を掛けた危険な旅に出ろという訳では無い。自分とは何なのかを探究し続けること、その覚悟と勇気を持ち続けること、安穏とせずチャレンジし続けること、それこそが与えられた命を生き切ることなんだと。ショーン・ペンは、無謀な若者の逃避行で終わりかねない物語を、まっすぐに見つめることで生の讃歌まで昇華させている。クリスの旅は終わり、映画も終わった。だが僕らの旅は続く。

イントゥ・ザ・ワイルド

監督・脚本:ショーン・ペン

原作:ジョン・クラカワー『荒野へ』

撮影:エリック・ゴーティエ 編集:ジェイ:キャシディ 美術:デレク・R・ヒル 音楽:マイケル・ブルック、カーキ・キングエディ・ヴェダー

出演:エミール・ハーシュマーシャ・ゲイ・ハーデンウィリアム・ハートハル・ホルブルックほか

2007年/アメリカ/148分

(C)MMVII by RIVER ROAD ENTERTAINMENT, LLC and PARAMOUNT VANTAGE, A Division of PARAMOUNT PICTURES CORPORATION.All Rights Reserved.

9月6日(土)よりシャンテシネ、テアトルタイムズスクエア恵比寿ガーデンシネマほかにて全国ロードショー

公式サイト http://intothewild.jp/top.html