映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

■試写室だより『ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ』<br>ただのオーソドックスな映画化、とは言えないような批評的な映画

 この作品は、平凡な高校生・市原隼人の前に夜な夜な謎のチェンソー男と戦う制服の美少女・関めぐみが現れ、彼女に惚れた市原は応援するという形でチェンソー男との戦いに関と共に没入していくことになる……というちょっと変わった設定です。

 

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(c)ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ製作委員会

 しかし基本的には実にオーソドックスな映画で、目的の無い青春を生きる若者という、いつの時代にもいそうな高校生の姿と恋愛ドラマを混ぜ合わせ、それを少々派手なアクション描写を交えて描いたといった趣です。

 監督の北村拓司は、この映画を「普遍的な青春恋愛映画にした」と語っているのですが、原作者の滝本竜彦は「この物語は何もかもが新しい」と語っています。

 監督と原作者の間で、その辺にちょっとズレがあるようです。

 

 確かにこの原作は、昨今の美少女ゲームにあってもおかしくない「チェンソー男と美少女のバトル」を擬人的に現実化させた設定にして、その手のゲームにハマっているオタクの青春を描いている「新しい小説」のようにも読めます。

 しかし原作者が新しがる部分こそが、実はオーソドックスな青春像の反復にすぎないことを、映画の作り手が無意識に鋭く見抜いており、そのように映画化してしまったようにも見えるのです。

 そこがこの映画の興味深いところです

 

 勿論、監督側は原作を批判的に捉えているのではなく、色々な人に広く理解されやすいように噛み砕いて映画化したのでしょうが、そのことが原作の根本の古さの露見に繋がっているようなのです。

 奇妙なことに、この「批評性の露出」は、原作を批判しているからではなく、寧ろわかりやすいものにしようとする作用によって起っているのです。

 

 原作でも映画でも、主人公の担任教師は「今の学生はかっての学生のように先生に反抗しない、その分何をやっても何も変えられないことを知っているから、昔より頭がよくなったのかもしれないが、どうもひねくれた反抗の仕方をする……」というようなことを語っています。

 

 しかし「ひねくれた反抗」など、ここ30年以上ずっと繰り返されてきたことであって、今時を語るに足る言葉でもなんでもないでしょう。

 むしろこの間、「ひねくれた反抗」の受け皿となるためのツールがとことん商品化され消費されてきました。

 

 だからか「ひねくれた反抗」をわかりやすく映画化=商品化してしまう行為こそが、「青春の商品性」という隠れた部分を無意識に露見させてしまっているのかもしれません。

 

 そして本当はこの「ひねくれた反抗」の商品化と消費の「外部」に出られないことに根本的な絶望があるのではないでしょうか。

 

 「普遍的な青春映画にしたい」という監督の言葉は、「ひねくれた反抗の青春など、もはや普遍的な商品でしかない」とも聞こえてしまう……この映画の原作に対する微妙なスタンスには、そんな無意識の諦念の影が感じられないでもないのです。

             

text by 大口和久(批評家・映画作家)

ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ

監督:北村拓司

脚本:小林弘利

原作:滝本竜彦

出演:市原隼人 関めぐみ 三浦春馬 浅利陽介 野波麻帆 板尾創治

2008/「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」制作委員会/109分/カラー/シネスコ/ドルビーSR

配給:日活

公式サイト http://www.nega-chain.com/

シネ・リーブル池袋新宿ジョイシネマ・渋谷Q-AXシネマほかにて公開中