映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

試写室だより『平成ジレンマ』 <br>「いいかげんにしてくれ」と彼は云った <br>近藤典行(映画作家)

 穴があいている。そこかしこに。皆で共同生活する建物内の壁に。殴りつけられたものであろうその穴はかつてあけられたものであり、ごく最近つけられたものでもある。その、同じようで別の穴を見ることが、しいては向き合わざるをえないのが、この映画を目にしてしまったものへ平等に強要される。その穴は、過去から現代に渡って掘られた(一体誰によって?)日本の暗くて深い闇そのものである。その根源を追求しろ、と『平成ジレンマ』の主人公は云う。  戸塚ヨットスクールの現在、に密着したこのドキュメンタリーは東海テレビによって製作された作品だ。出発は「映画」として意図されていなかったはずのテレビ番組の枠内で作られたドキュメンタリー作品が、こうして、映画としてスクリーンで上映されることの形はいろいろと有意義な可能性を内包していることと思うが、今回その意味合いはとりあえず素通りしたい。そんなこと一切無視して、この作品がただただ骨太で堂々とした映画として、多くの人の目に触れればいいと願うからだ。東海三県でしか放送されなかった本作が未公開シーンも含めた再編集版でまず東京と名古屋の劇場にかかったことを素直に祝福したい。 dilemma_sub1.jpg  ドキュメンタリーとフィクションに境はない。このこと自体に私は何ら異論はない。その境界を往還しながら素晴らしい映画を撮る作家は現在世界の至るところで存在している。たしか、かつて荒井晴彦氏が『M/OTHER』(1999)に対して「シナリオで書ける以上のことを喋ってない」と発言したと記憶しているが、ドキュメンタリーにおいてはごく稀に、台詞では決して書けないであろう言葉が生まれてくる瞬間がある。今、ぱっと私の頭に浮かんだ代表例の一つが『極私的エロス 恋歌1974』の有名なあの出産直後に出てくる言葉である。 この『平成ジレンマ』にもドキュメンタリーならではの言葉が訓練生によって数々洩れるように滲み出てくる。監督も撮影者もその言葉を丁寧に掬い取っていくことにどこまでも真摯だ。この映画の誠実さはそのような撮影態度によって保証されている。そして、この映画で最も多くの言葉を発する戸塚ヨットスクール校長・戸塚宏の口からも台詞では書けないような言葉をいくつも耳にすることができる。発言の内容については、この映画の作者同様、私も是非を断じない。ただ、自分の信念で作り上げられた言葉で執拗に語るその態度は人を惹きつけるものがある。作品中、登場する別の施設の園長や戸塚ヨットスクールを訴える準備を進めているという弁護士の言葉が、なぜか腹立たしく感じてしまうのは、噂やマスコミ報道で知ったという伝聞に基づいた、自分の言葉とはおよそ言い難い定型文のような物言いだからだ。 d_sub3.jpg  ここで、反対の側面も書いておかなければならない。信念によって導かれた自分の言葉とは、魅力を湛えながらも暴走しうる危険な性質も併せ持つ。独善的、独裁的に直結しやすいからである。戸塚ヨットスクールを支援する団体の代表者も務める、現在の某東京都知事を見れば火を見るより明らかだ。人々に有無を云わせない言葉、この作品で最も観客に響くだろう言葉とは、戸塚宏のマスコミに向けられた二つの正論だ。一つは過去の裁判後の記者会見で、もう一つは密着中に起きた事故で囲まれた際の報道陣とのやりとりで、どちらも記者のバカな質問に反論する形で怒りを抑えながら発せられる。これらの場面や密着している校長、コーチ陣、訓練生との長い時間に立ち会い、じっくり耳を傾けたからには制作者として偏りたくなるのが人情だろうし、それを逃れても無意識の内に引っ張られてしまうのが当然の事態だが、この作品の制作者たちはそこにきっちり距離を置く。戸塚ヨットスクールが過去に行ってきた体罰暴力、現在の訓練の模様、日常的に起こる訓練生たちのケンカ、いじめ、それをそのまま提示していく。中立公平などとも違うこの姿勢は、テレビドキュメンタリーに携わる倫理などといったもので片付けられない姿勢のように思える。絶対的な事実の積み重ね、この映画のすごさはそんなところにある。これは簡単にできることではない。 dilemma_main.jpg  訓練生が一人で乗るヨットが水上を滑走する光景がこの作品の中でほぼ見られないのは象徴的だ。バランスを崩した時、いかにヨットを水平に保ち安定した状態に戻すか、転覆した場合、どうやってヨットを起こしそこにまた上るか、キャメラはそうした困難な場面に直面した訓練生を執拗に捉えることに終始する。この「立て直すこと」こそ、戸塚宏が真に訓練生に覚えさせたいことだからだ。実際、作品中の訓練生たちは「立て直し」たかのようにこのヨットスクールを卒業していっては、「転げ落ちる」ようにまたこの施設に戻ってくる。彼ら彼女らはどこへ行くのだろう。逃げても逃げても現実は追いかけくる。彼らが何度も何度も戸塚ヨットスクールに連れ戻されるのは、舞い戻ってきてしまうのは、現在の日本のそこいら中に穴があいているせいだ。その穴の底が戸塚ヨットスクールであるというのか。いや、穴はまだ底を見せない。そこから落ちて、死に向かっていってしまった訓練生をもこの映画は偶然撮ってしまう。過去の映像の中で、若き戸塚宏は「よくなったと思ったらみんな帰っていきよるわい」と、母親と去っていく少年の背中に向けて笑顔で言う。あの時代なら非行から抜け出した少年少女にはまだいくらでも生きていく場所があった。今回の密着取材で撮られた映像の中で、短い間ながらも合宿生活を終えた少年に「また来い」と少しだけ開いたドア越しに老いた戸塚は言う。その言葉は、一度ここに足を踏み入れた者はまたここに来るしかないことを暗示しているかのようであり、あまりに暗い。彼らはこうしている今も、この穏やかに見えながら生きていくことが過酷な街でひっくり返っては起きながらなんとかその場をしのいでいる。またどうしようもなくなった時のため、もう白くはない外壁を持つ戸塚ヨットスクールの建物は今もあの場所に存在している、その絶対的事実。 dilemma_sub2.JPG  穴があいている。誰があけたのかも判らない穴が。そんな塞がりようもないほどの穴を前にジレンマは襲い掛かる。「こんな仕事誰がやりたいもんか」。正解のない問題に尚も立ち向かうのは、それは自分以外誰もやる人間がいないからだ、とする戸塚宏のジレンマは一生つきまとうに決まっている、その深さと恐ろしさ。この映画が映像に収めてしまった闇とは、個人でも団体でも国家ですら埋められない深淵を持つ穴ぼこである。オカリナの合奏を戸塚校長は協調性を養うためにと訓練生に課す。穴をひとつひとつ塞いで音を出すオカリナの合奏は、か細い息と心もとない指が齎すレクイエムとして響くことになるだろう。  最後に、私はこの作品を単に映画としてここまで書き進めてきたわけだが、本作が、戸塚ヨットスクールが今も昔もそこにそうある建物を捉えるための度重なる空撮、そして過去の膨大な取材からなる豊富な映像および写真資料、などこういったものの選択、使用が可能となるテレビ局が母体となって実現した貴重なドキュメンタリーである、という事実も指摘しておきたい。 『平成ジレンマ』 監督:齊藤潤一 プロデューサー:阿武野勝彦 音楽:村井秀清 音楽プロデューサー:岡田こずえ  撮影:村田敦崇 編集:山本哲二 (C)2010 東海テレビ放送 ポレポレ東中野名古屋シネマテークにて公開中、他全国順次公開 『平成ジレンマ』 予告編 *『平成ジレンマ』公開記念 東海テレビ ドキュメンタリー〈傑作選〉 2月19日(土)『光と影 ~光市母子殺害事件 弁護団の300日~』 2月20日(日)『罪と罰 娘を奪われた母 弟を失った兄 息子を殺された父』 2月21日(月)『村と戦争』 2月22日(火)『約束 ~日本一のダムが奪うもの~』 2月23日(水)『毒とひまわり ~名張毒ぶどう酒事件の半世紀~』 2月24日(木)『検事のふろしき』 2月25日(金)『裁判長のお弁当』 時間:14時40分~ 会場:ポレポレ東中野