映画芸術

脚本家荒井晴彦が編集発行人を務める季刊の映画雑誌。1月、4月、7月、10月に発行。2016年に創刊70周年を迎えました!書店、映画館、Amazon、Fujisanほかにて発売中。

荒井晴彦の映画×歴史講義 番外編<br>『国道20号線』(07)

 脚本家・荒井晴彦が映画とそこに描かれた歴史的事件について語る好評連載「荒井晴彦の映画×歴史講義」。今回は番外編として、KAWASAKIしんゆり映画祭2008で上映された『国道20号線』のトークショーの模様を掲載します。映画芸術2007年ベスト・テンにて第9位に選ばれた本作。富田克也(監督)、相沢虎之助(脚本)の強い要望により、足立正生荒井晴彦の両氏がゲストに招かれました。

 「当時は禁止されていなかったから私の友人も何人か麻を栽培してましたよ」(足立)「富田の映画観てると暗くなるんだよ、やっぱり。考えなきゃいけなくなるじゃん」(荒井)などなど予測不能な痛烈トークがノンストップで展開します。

(構成:川崎龍太

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国道20号線

監督・編集:富田克也

脚本:相沢虎之助、富田克也

撮影:高野貴子 録音:石原寛郎

出演:伊藤仁、りみ、鷹野毅、村田進二、西村正秀、Shalini Tewari、他

(日本/2007年/77分)

〈解説〉 

 かつて暴走族だった主人公ヒサシは、同棲するジュンコとパチンコ通いの毎日。シンナーもやめられないていたらくで借金だけが嵩んでゆく。そんなヒサシに族時代からの友人で闇金屋の小澤が話を持ちかける。

「なぁヒサシ、シンナーなんかやめて俺と一緒に飛ばねえか?」

 地方都市を走る国道。両脇を埋めるカラオケBOX、パチンコ店、消費者金融のATM、ドンキ・・・。現代の日本、とりわけ地方のありきたりの風景。ヒサシは夜の国道の灯が届かないその先に闇を見つけてしまった。宇宙のようにからっぽで、涯てのない闇のなかで繰り返されるありふれた事件、そしてかつて見たシンナーの幻覚の残像がヒサシを手招きする。

「ほんで俺も行ってもいいの?ホント?ホントに?」

(『国道20号線』HPより転載)

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富田 今日はお越しいただいてありがとうございます。当初、僕の舞台挨拶ということでお話をいただいたのですが、せっかくですので、僕がかねてからお話をしたかった足立正生さん、荒井晴彦さんにもお越しいただきました。

 まずはじめに、この作品を撮った経緯についてお話しします。この作品が正式には二作目になります。僕は山梨県甲府市出身なんですが、一作目の『雲の上』(03)も山梨県が舞台でして、三年ぐらいかけてコツコツ撮っていました。ひたすら国道を車で行き来する三年間だったんですが、その道すがら、ある時、消費者金融から国道を渡ってパチンコ屋に入っていく男がふと目に入りました。それまで当たり前に見ていた風景だったのに、「あれ?」と思ったんです。広大な土地のなかにパチンコ屋とATMが隣同士にあるので、一見便利には見えるんです。でも、同乗していた相沢と僕のなかで、これはちょっと異常な風景なんじゃないか、これは映画にするべきだ、と思ったのが『国道20号線』を撮り始めたキッカケです。

 省略して話を進めますと、撮影後の編集段階で、この映画の終わらせ方に困ってたんです。それで試行錯誤を繰り返していたら、頭の中で閃いたというか思い出した映画がありました。それが今日来ていただいた足立正生監督の『略称・連続射殺魔』(製作69年/公開75年)です。ご覧になっていない方もいると思うので説明しますと、1969年に永山則夫という人が無差別に人を殺した事件がありました。彼の逮捕後、三人以上殺したら死刑という永山基準が出来た連続殺人事件です。その永山則夫が人を殺して、日本列島を逃げていくなかで見たであろう風景だけをひたすら撮った映画が『略称・連続射殺魔』なんです。確か途中でタクシーを強奪するんですよね。その車窓からの風景が強く印象に残ってたんです。「これだ!」と思って編集をした結果、先ほど観ていただいたエンディングになりました。やっと完成した、と思えましたね。

足立 最初に荒井さんが感想を言ったらどうでしょうか。

荒井 ……。

足立 今、観たんでしょ?

荒井 だいぶ前に観たから忘れた(笑)。貶すのは得意なんだけど、褒めるのはちょっと……。ボキャブラリーが無いんですよ。「いい」という言葉しか。

足立 時間の無駄になるから、じゃあ俺から話をします(笑)。富田さんが繰り返し無差別殺人と言いましたが、実は無差別でも何でもなくて、自分がどうしようもない時の突破口として殺人を犯したんです。それが偶発的かつ連続的に起こっているから、客観的に見て無差別殺人と言われた。『略称・連続射殺魔』は、「なぜ永山則夫が殺人に至るのか」がテーマでした。永山の生家は網走の貧乏な一家で、彼は林檎畑の番小屋で生まれ育ち、飢え死に寸前の生活を送っていた。やがて、少し大きくなって青森へ出稼ぎに行った母親が雇われマダムをしていた飲み屋に身を寄せたりしていた。彼の少年時代は、高度経済成長政策の最中でした。中卒の少年少女が「金の卵」と呼ばれる低賃金労働力として、東京その他の大都市にどんどん集団で送られ、色んな生産工場やサービス業で働かされる時代だったんです。

 永山則夫も中卒で渋谷のフルーツパーラーで働くけれど長く続かなかった。森進一と同年で、森進一の場合はサクセスストーリーだけど、永山の場合はドロップアウトして最底辺世界に生きることになる。この二人は、どちらも「金の卵」の辿る典型的なケースでした。彼は、それほど悪いこともできずヤクザにもなれない。それで最終的に米軍基地へ忍び込んで拳銃を盗むが、やがて、それを使って殺人をするに至るわけです。 

 『略称・連続射殺魔』の製作過程では、永山の生い立ちの調査とロケハンをやったけれど、まだ、どういう映画にするか決めないままでした。それで、とにかく彼の生きた跡をすべて追ってみることにした。足跡をたどって方々を見て回って行くうちに、どの街に行っても、日本中が高度経済成長でどんどんコンクリート化していました。低い街並みの上を高速道路が走り、大きなビルが建ち並び始め、田舎から出て来た若年労働者たちがそんな所で働かされると彼らの身体感覚と言うか感性は日々、周囲に圧迫されていたのだと感じました。この『国道20号線』の作者たちが、国道20号線を見た時と同じように、街を歩きながら「これはヤバイ!」と直感し、拭い去れないものが生まれたんですね。永山は、結果的には連続的に人を殺したが、彼の生涯は、網走や青森でかつかつで生きていた時、集団就職で上京して働いていた時、あるいは何度か密航を企てて遂に香港で見つかって送り返された時、そんな時々に彼が見た風景は、自分を包囲するように覆い被さってくる風景を見て、感じて逃げ続けていたんじゃないか、と思いました。おそらくそれは、どの都市や街に逃げて行っても同じだったのではないか。1960年代末には、既に風景そのものが人間への圧迫感として現れていました。平たくいえば、華々しい成長経済の全体が一人一人の人間を追いつめている、という問題、そこで脅迫される人間の身体感覚の問題をやりたかった。だから、『国道20号線』を観て、同じ感覚が基本に置かれていて、実に気に入りました。

 私が『略称・連続射殺魔』をやった頃、田舎は田舎でまだあったんです。大都市にしろ地方都市にしろ、東京=都市のコピー化が始まっていた。同じような都市計画で同じような建物がずるずると日本中に並んでいく状態でした。

 この『国道20号線』を観て思いました。ここで描かれている人間の生活空間は、街とか都会とか田舎の区別がなく、ただただ、あの20号線の100m半径の中に全てが抽出されてある。もっといえば、メビウスの輪帯のように、パチンコ屋とATMと闇資金だけが100m半径の世界に詰め込まれていて、そこで人間が生かされてしまっている。だから昼間でも砂漠のような風景が広がっているんでしょう。登場人物が何かをしてもしなくても、「ああ、やがて、こうなるな」と納得してしまうぐらい彼らの身体感覚そのものが追いつめられた世界で、それが全てのシーンにも映っている。これには感動しました。

 パンフレットには、わざわざ方言の解説がしてあります。だけど、実は解説なんか無い方がいい。昔、米国から輸入されたTV番組の西部劇シリーズがあったけれども、その日本語アテレコ版の音声を消して、勝手なセリフを付けて遊ぶゲームがありました。それと同じで、登場人物たちのセリフを消さなくても、今のまま自分が呟く勝手なセリフに入れ替えてみたくなる感じでした。

 若松孝二のかっての映画の手法は、俳優とスタッフに脚本を読ませて、TVのやらせドキュメンタリーの仕方で俳優の動きをカメラが追いかける撮影の仕方でした。ヤラセの即興劇のように、ヨーイハイと撮影する。やらせドキュメンタリーだから、役者の人物像と画面の臨場感が上手く撮れるわけです。これは迫力ある演出ともいえます。

 『国道20号線』の場合は、やらせをしなくても、登場人物たちが座っているだけで、あるいはせりふを何も言わなくても、その存在感と生活感情が伝わってくる。最低限のセリフは出てくるけど、そのセリフがむしろ日本語というよりも抽象的な呪文や呻きに聞こえるくらいだった。そのくらい、僕はこの映画を気に入りました。

富田 今日お話させていただくということで『略称・連続射殺魔』を見直したら、かつては読み取れていないものがありました。車窓から見える風景に、現在とあまり変わらない看板が建ち並んでいたんですね。先ほど足立監督が仰ったように、今は全部そうなったかもしれないけど、七〇年代からポツポツとそうなりつつあったんだな、と。

 今日は荒井さんにもお越しいただいているのでお聞きしたいんですが、『略称・連続射殺魔』が七〇年代にありました。そしてもう一つのポイントが、荒井さんが脚本をお書きになった『遠雷』です。農村でトマトを栽培している永島敏行さんの話で、ちょうどその頃、団地がいっぱい建って、スーパーマーケットも出来て、個人農業の人が農協に卸していく状況が描かれています。作品は八一年に公開ですよね?

荒井 八一年。畑や田んぼを潰して団地が建っていくという。それが何なの?

富田 段階があるんですよね。農村に団地が出来て、都市部から人が流れてくる、道路整備もされて、おそらくその周辺に国道20号線のような風景が着実に作られていく、その段階が。

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左から相沢虎之助、富田克也

荒井 俺が育ったのは東京の三多摩といって、昔は北多摩郡南多摩郡西多摩郡という田舎でいう郡部だったから、同じ東京都内でもちょっと差別されるような感じがあった。三多摩が『遠雷』化したのは昭和二〇年代、俺が世田谷から越した頃。俺たちみたいなのが来て東京郊外の宅地化が始まったんだよ。その辺の地主だった小学校の同級生の家は土地を売って映画館や本屋を始めたんだけど、バクチかなんかで結局、自分の家まで取られてしまった。宇都宮がその二十年後。宇都宮も通勤圏になったからね。『遠雷』を書いているときは、子供の頃を思い出して、もう宇都宮まで宅地化が進んでいるのか、ああ、これが今なんだ、と思った。監督した浅草生まれの根岸は「ビニールハウスは撮影所なんだ」と思い入れしてた。日活が撮影所の敷地を売ってステージを潰した後にマンションができた。食堂からマンションを見上げながら、「宅地化の波」を実感してたんだよ。だってそうでもしないと僕らは百姓と田舎を撮れないじゃないですか、シティボーイとしては(笑)。

 足立さんは永山則夫をどこかで肯定していると思う。世の中が悪いんだから殺していいじゃないかと、どこかで思って撮ってる。『遠雷』だと、ジョニー大倉団地の人妻を殺しちゃう。僕らより上の世代の人はジョニー大倉を主人公にしたと思うよ。いわゆる“破滅する青春”というかな。宅地化の波のなかで狂っていく青春。だけど俺と根岸はジョニー大倉じゃなくて、永島敏行、つまりズルい奴を主人公にした。破滅する青春はもう嫌だ、東映じゃねえよ、と。俺たち三面記事の主人公にはなれないで、三面記事の事件を読む人だから。

 『国道20号線』も同じ構造だよね。世の中がいけない、というと犯罪に行きがちだと思うんだ。でも今は犯罪にいかない、いけないということだよね、『国道20号線』は。結局しょうもないお姉ちゃんが死んで、「これ、貸しとくよ」と言って埋めもしないで、どこに行くのか分からないけど、バイクに乗ってつまらないことをブツブツ言う。いらねえよ、あそこ。でも、世の中が悪い、人を殺してもいいんだ、というほうがお客さんにはものすごく分かりやすいじゃないか。永山則夫が「無知の涙」という本を書いたよね。ムショの中でマルクスを勉強して、俺が人を殺したのは世の中が悪いんだ、と。俺もそう思ってるんだけどさ。世の中のせいにして、しすぎることはないと思う。だけど今の時代はこうだよ、自滅だよ、と富田たちが撮ってもお客は来ないわけじゃん。

富田 はい。バレましたか(笑)。

荒井 時代を描くと「反」時代的な映画になる。だから俺は好きなんだけどね。だけど、時代を描かない、時代の上っ面だけ描いた「非」時代的な映画に客が来るわけ。『ジャーマン+雨』(07)が『国道20号線』より入ってるらしいけどさ。どうしてこの子はこんなにおかしいんだろう、という原因がなくてもいいんだよ。そのほうが観ていて楽なんだ。だけど、富田の映画観てると暗くなるんだよ、やっぱり。考えなきゃいけなくなるじゃん。

足立 どうせ荒井の映画も入ったためしが無いわけだから、大丈夫だよ。

荒井 あなたの『幽閉者』(07)も全然入らなかったよね(笑)。

足立 プロデューサーが映画館に行くと、一人しか座ってない日があって、ショックを受けてた。

富田 うちもカメラマン一人が座ってたこともありました(笑)。

足立 荒井さんが言ったように、時代を正直に描けば反時代的な映画になる。それは、どの時代でもそうなんです。四十年前も今も、僕の場合も荒井さんの場合も変わらない。反時代的になるのはなぜかと言ったら、時代を正直にピックアップすればどんどんシンドくなっていくから。ただし『国道20号線』は、さっきから風景論やメビウスの帯だとか言ったけれど、そこに生きている人がいるんだよ。その人々の整理が非常に上手だったと思う。

 あそこに登場しない日本人はどういう人たちなのか、それを考えた方がこのトークのテーマになると思う。荒井、そうだろ? あなたは恋愛とかネチョネチョとか心のヒダがテーマの人だけどさ、そっち側から観たらどうなんだ?

荒井 それは世を忍ぶ仮の姿でしょ。俺、本当は社会派だよ?

足立 ああ、そうか(笑)。

荒井 映画に出てこない人たちは、今日観に来てる人たちじゃないですか。あんないい歳してシンナーなんかやってないって。二十歳過ぎてまだやってるのは凄いよね。

足立 本当にまだやってるのかな?

富田 やってる奴はいますね。

足立 四十七、八年前にはシンナーや睡眠薬があったし、それから当時は禁止されていなかったから友人の何人かは大麻を栽培してましたよ。私も研究熱心だから体験したけど、やっぱり酒飲んで映画のこと考えてるのが一番トンでる状態だった。

荒井 最近なんであんなに大麻で捕まってるの? 大学生とかさ。で、退学処分とか。人に迷惑かけなきゃいいじゃん。

足立 よく知らないんだけど、今は薬事法かなんかでダメなの?

荒井 大麻取締法ってのがあるの。

足立 あるんだ。

荒井 煙草は売ってるのにおかしいよね。

足立 煙草と変わらないもん、あれは。

富田 なんだこの話(笑)。

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左から足立正生荒井晴彦

足立 ただね、『国道20号線』で色んな人物が出てくるけれども、脚本を書いて演出もした側のあなたたちは、薬事法で引っ掛かるような人たちに感じないね。映画表現としては、マリファナをやったことがない奴がやったらこういう画になるとか、普通は映像主義的に、マリファナをやっているときの状態を画で表現しようとする。だけど、そういう表現が一切ないのがいいと思った。

荒井 俺もそう思った。普通さ、やったときのいい気持ちを画にしようとする人が多いじゃない。『イージー・ライダー』(69)はLSDの幻想シーンだけつまらないもんね。ラリッてるところをみんな映像化しようとするんだけど、だいたい面白くない。再現しようとは全然思わなかった?

富田 思わなかったです。

足立 そこが良かった。ドラッグなんて決して気持ちいいもんじゃないから。

荒井 何よ、また急に(笑)。

足立 いやいや、やってみたらいいもんじゃなかったからね。やるのは現実がシンドイからとか逃げたいからとか色々理由があると思う。今は、俺みたいに研究しようと思って体験する時代でもないんだし。そういうのは、どうでもいいやと思ってたわけ?

相沢 例えば、もちろん好きな映画なんですが『イージー・ライダー』を観てもその部分がちょっと違うな、と違和感があるんですよね。だから自分たちはやらない、と。

足立 なるほど。そこがなかなか素晴らしいと思う。普通ならシリアスな社会派になるところを、一切ならないで、ただ見ているだけという映像構成。なかなかしたたかですよね。

富田 必要最低限にしようという思いはありました。例えばシンナーを吸って、音が「ホワンホワンホワンホワン~♪」と響いていく、それだけやらせて! みたいな。僕が暴走しそうになると周りが止めてくれるんで助かってます。まあ、そこらへんは抑えて抑えて、という意識はあったんですけど、作り終わってみると、抑えすぎてねえか? 大丈夫か? って最初は不安でした。

足立 その分、あれだけ追い込められて、メビウスの100m半径内に生かされながら、それでも生きている人間、その人間の美しさが良く出ていました。生きることはこんなに大変なんだ、とちゃんと言っていてそこが感動的でした。それに、話として、誰も成功していないのがいい。一時はうまくいっても結局成功するわけないもんだし、……話が暗いか(笑)。

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国道20号線

富田 時間があまりないんですけど、せっかく来ていただいたので質疑応答にも時間を使いたいと思います。もし何かありましたら、僕らは逃げも隠れもしませんので、ご批判を含め何でも仰っていただければと思います。ちなみにこの映画が公開された頃、年代によって感想が違いました。「主人公自体が堕落そのものじゃないか」とか。

相沢 そうですね。堕落に対して問題意識を持ったり、立ち向かったりするんじゃなくて、主人公が腐敗している、と。

富田 要するに、主人公が抱えた不満を社会に対して反撃に出る、それがカタルシスとして描かれていた映画を観てきた私らにすると、君の作った映画の主人公には感情移入できない、主人公自体が腐敗そのものじゃないか、と。結構な拒絶反応でした。

荒井 そういう奴がいるから日本の映画がダメになったんじゃないか。中国がそうだよ、まだ。犯罪者を主人公にするなんて考えられない。偉い人は生まれた時から偉い人で、犯罪者は生まれた時からダメなヤツなの。「盗人にも三分の理」もないんだよ。

富田 正直、この意見はかなり多かったです。お客から金取って見せる代物じゃないとか、これを映画として見せたら映画が可哀相だとか、かなり言われましたよ。

足立 それは面と向かって?

富田 面と向かって言ってきた人もいます。

足立 なんでそれを撮影してないの?

一同 (笑)。

足立 作者へのインタビューだと思えばいいんだから。そういう人たちがどこまで真剣に映画を考えているのか、きっと全く違うことを考えていると思うから、興味津々になって。

富田 そういう批判も含めまして何かありましたら。

荒井 丸内(敏治)いる? ちょっと感想を。

丸内 郷里の熊本に年に一度くらい帰るんですが、熊本の風景を見ると帰る度に悲しくなりますね。国道20号線のような風景もあるし、寂れたバスターミナルに老人ばかりいたりとか。殺伐というんですか、捨てられたような風景があって。いやな感じになったと、そういうことを最近よく考えていて、今日の映画を観てより強く考えさせられました。それから、足立さんが言われることも分かるんだけど、もう少し作ってもいいんじゃないかと思いました。投げ出されているだけという感じがちょっとあった。ラストのナレーションが被さるところは画だけで見せてほしかったし。でも彼女が亡くなる場面は力があって良かったですね。

富田 ありがとうございます。ラストに関しては荒井さんにも散々怒られました(笑)。ほかにどなたか。

観客 宮台真司先生のホームページですごく評価されていたので観に来ました。シンドイんだろうなと思ってたんですけど、やはりシンドかったです。最後に衣装が黒から白くなるところが、こちらも現実なんだと突き抜けたのかと思ったり、ああいう所にまみれている女の子たちでも平凡な家庭生活を夢見ているんだろうな、というのが分かりました。そういう方々とあまり接する機会がないので。

富田 突き抜けたということも意図していますけど、暗闇に連れ込まれる金髪の白いスーツを着た男がいますよね。あともう一人、「ゼリー喰いたい」と言う金髪の女。唯一カメラ目線にさせた登場人物がその二人なんですけど、まあ、ヒサシが何かを見つけたときに、自分の何もない生活のなかで何回か暗闇を見つめたりしますけど、そういうなかでヒサシが「あんなシャブ中女どうでもいいんだよ」と文句言いながら、彼女にどこかで感情移入したんですね、おそらく。シンパシーを感じたと言いますか。文句を言いながらもどこかで通じ合った。で、あの暗闇に連れ込まれる男を見たことで自分がそこに行くだろうという予感、覚悟を決める上で一つキッカケになったという意味で白いスーツを着せました。あとは、彼女たちが平凡な家庭生活を夢見ているんじゃないか、という意見……メチャメチャ夢見ていると思います!

荒井 その質問の意図は何なの? ああいう外れている連中は結婚制度に幻想を持ってないってこと?

観客 自分のことだけでガンガンいっちゃうようなイメージだったので。

富田 ゆかりという金髪の女は忌み嫌っている登場人物ですけど、対立させるキャラクターとして描いただけです。基本的に彼女たちは結婚生活に対する想いが強いですよ。

荒井 障害者とか、世の中の落ちこぼれ、シャブやってるような連中、売春してるような女、そういう連中だからこそ結婚というフツウを夢見るんだよ。そこが哀しいんじゃないか。三十代で働いて、自立してるような日本の女たちがハマっているっていう『セックス・アンド・ザ・シティ』(08)の女たちだって、結局、結婚願望じゃないか、四十代になっても。そういう女の結婚願望は許せない。そういうバカな女たちにああいう子たちも夢見てるんだとか差別的に言われると頭にくるなぁ。ああいう子たちが夢見るのは当り前で、君らが夢見てるからどうしようもないんだよ。

相沢 すみません。時間いっぱいになってしまいました。終わっても外のほうで僕らは残っていますので、何かありましたらそちらでお話しさせて下さい。足立さん、荒井さん、今日は来ていただいてありがとうございました。みなさんもありがとうございます。

(2008年11月1日 川崎市アートセンターアルテリオ映像館にて)

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国道20号線』公式サイト http://www.route20movie.com/