プロ野球は負けても次の試合があり、次のシーズンがある。だが、高校野球に次はない。その一回性ゆえにマスコミもドラマを盛り上げるし、世間一般でも夏の風物詩として広く認知されている。高校球児の溌剌とした姿に胸躍らされ、自身のもう戻らない時を懐かしむ。誰しも過去には甘く、現在には厳しいものだ。だからこそ、高校野球は青春の象徴となり、甲子園はその聖地となった。
今回が劇場映画の初監督となる森義隆は自らが高校球児だった経験から、この高校野球に対する反応に強い違和感を持っていたようだ。タイトルの108【ひゃくはち】とは、硬式野球ボールの縫い目の数で人間の煩悩の数と一緒。高校球児は決して清々しいばかりじゃない、脚光を浴びるのはほんの一握りの選手だけで、補欠になんて誰も眼を向けることはない。だが、その無数に存在している補欠にとっても高校野球は青春なんだと、そんな思いをデビュー作に込めたのではないだろうか。
(C)2008「ひゃくはち」製作委員会
雅人(斎藤嘉樹)とノブ(中村蒼)は甲子園出場常連の名門、京浜高校野球部員。2人と同級生の純平(高良健吾)はプロのスカウトからも注目されていて、健太郎(北条隆博)はキャプテンで盤石のレギュラーだ。自分達はどうあがいてもレギュラーになることはできない。ベンチに入れるかどうかもギリギリの補欠。それでも最後の夏の甲子園、何としても2人揃ってベンチ入りを目指す。
4人は仲が良くて、寮をうまく抜け出しては合コンに行って酒を飲んだり、タバコを吸ったりしている。雅人なんて生来の当たって砕けろ精神で、合コンで知り合った女子大生とSEXするところまでこぎつける。
見つかれば出場停止どころではないのに浅はか。でも思えばそこまでの知恵が回らないのもこの年頃だ。今やプロ野球を代表するあの投手だって、喫煙しながらのパチンコ姿を撮られていたことがあった。高校球児だからといって、大人でもなければ聖人君子でもない。ただの17、8の子供だ。
(C)2008「ひゃくはち」製作委員会
高校野球の大ファンの新米記者サチコ(市川由衣)は、彼らと監督、ベテラン記者、プロのスカウトの裏側を覗き失望する。その姿は、過度に高校野球を美化したがる人々を投影しているかのようだ。サチコは「君にとって高校野球はなに?」と雅人に問う。雅人は「最後の夏まで頑張り通したら、何かふさわしい言葉が見つかるかもしれない」と答える。
タバコが吸いたい、酒が飲みたい、合コンがしたい、女の子が気になってしょうがない。これらは息抜きである以上に「そうしたい」という強い欲求だ。いくら練習してもレギュラーになれない、試合にも出れない、それどころかベンチに入れるかどうかも分らない、なのに何故そこまで頑張るのか。これも理屈じゃない、「そうしたい」という欲求がそうさせるのだ。考えが及ぶ前にただがむしゃらに行動する。その真っ直ぐな姿にサチコの高校野球に対する見方も変わっていく。
終盤に最大の葛藤が用意されている。有望な新入生の加入でベンチ入りが怪しくなった雅人とノブは、ついにその座を巡って争うことになる。昨日の友は今日の敵、この時の2人の反目は凄まじい。「勝ちたい」という欲求を満たす為、お互い仇のように接する。だが、これもまた青春期特有のリアルな心情と言える。
そして迎えたベンチ入りメンバー発表の日。結果は2人に意外な心境をもたらした。努力と運次第、ただ喜べない、綺麗事じゃない。ラストも自分にしかできない最上のことをするという姿勢が潔かった。監督は変化球でギリギリのコースを突きながら、ここ一番では直球で勝負した。
(C)2008「ひゃくはち」製作委員会
ただ、欲を言わせてもらえるならば、雅人のSEXの話だけで純平や健太郎がオナニーしてしまうとか、ノブが会えない彼女を思い出してオナニーしてしまうとか、合コンする小遣いが足りなくてパチスロに行くなんてエピソードや、もっと雅人とノブを否定し続けるキャラクター(妙に冷めているとか、ネチネチしている奴)も見てみたかった。雅人以外の連中の煩悩を描くことで、もっと広がりを持って彼らの青春を肯定できたのではないかと思った。
死ぬほど努力しながらも誰か怪我してくれと本気で祈る。一服しては考える野球と家族、友達と合コン。そんな清く正しくない高校球児の姿を描きながら、観終わった後には清く正しい青春の姿を痛いほど感じた。青臭いのを承知で「人生に補欠はいない」と本気で考えた。
今年も甲子園の幕が開く。それぞれの欲求が熾烈にぶつかり合うだろう。いつもより、ベンチやスタンドが気になる。
青春は美しくない。でも、いいもんだ!
『ひゃくはち』
監督・脚本・編集:森義隆
原作:早見和真
撮影:上野彰吾 照明:赤津淳一 美術:松葉明子
録音:宮田泰司 企画・プロデュース:永井拓郎
プロデューサー:木滝和幸
配給・宣伝:ファントム・フィルム